<< March 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
サウジアラビアに愛を込めて
神権政治とおさらばして
社会工学を取り入れよう


主人公、伍子胥と天才兵法家・孫武が、絶妙コンビネーションで大国・を叩きまくるの巻。

軍法という新しいプロトコルで動く軍と、旧態依然とした私兵の集合体・楚軍とのコントラストが眩しいです。この構図、約200年後に秦と楚でも再現され、軍法でインセンティブを明確にした秦軍に滅多滅多にされて、楚は滅びます。その200年以上も前に「軍法って大事やん!」と覚醒できるチャンスを活かしきれなかった楚。残念すぎるのですが、なぜでしょう。

一つは、楚の文化。

楚は徹底した個人技万歳の国で、軍法(システム)の探求よりも、剣技、射術や馬術などを伸ばすことを良しとしました。一人の兵士が倍の敵兵を倒せば、軍全体の戦闘力も倍になるんじゃね?!というのが楚人の発想。兵質にはバラツキがあり、そんな単純計算で戦闘力は増えません。貴族階級からなる職業軍人と、徴兵された士気の低い一般庶民とが混じり合う組織の中で、銘々が勝手に動いても効果は出にくい。どうすれば、目的も力量も違う個人の、集合体としてのアウトプットを最大化できるか。楚は滅亡するまで、この社会工学(システムとインセンティブの設計・運用)に興味をもてませんでした。西方文明の雄、ローマとえらい違い(「空き家はコミュニティー崩壊の予兆、ローマより」p100-101)。
もう一つは楚の国体。

のちに戦国時代を勝ち抜き始皇帝を生み出した秦は、驚くくらい国体の中心、首相に外国人を登用しました。秦国に律令をもたらした商鞅(衛)から始まって、張儀(魏)、孟嘗君(斉)、范雎(魏)、蔡沢(燕)、呂不韋(韓)、李斯(楚)とおよそ150年間で首相の8割以上が外国人!
一方の楚は神権政治を色濃く残していたため、国体の中心は血統が第一。王家から分かれた名家によって位は独占されます。結果、新しい考え方が国政に入ってこないので、国の動きも緩慢。滅亡直前に非王族出身・黄歇(春申君)が首相になりましたが、それでも楚人。楚が外国人を宰相にしたのって、呉起くらいじゃないでしょうか。楚は、「楚材晋用」というくらい人材登用とは程遠い国体でした。

と、歴史のおさらいをしていたら、頭の中にはサウジアラビアが出てきました。
政府高位は王族が独占。オイル価格の変動はあれど、今すぐ何か手を打たなければならない、というほどの危機感は政権中枢にないように感じます(国民はあるかもですが)。非サウジアラビア人が政権中枢に座って、大鉈を振るうことはないでしょう。

サルマン皇太子ボスコンのような説客を駆使して、改革に着手してますが、社会構造が旧態依然としているから、反対勢力の抵抗、激しそうです。社会構造が古いままで、大変革をしようとすると、亡国フラグが立つのが歴史の証明するところ。
殷の紂王は開明的かつ先進的でしたが、あまりに社会常識とかけ離れてしまったため、悪王カテゴリーに突っ込まれてしまいました。信長しかり。急激な改革はミラボーが説く通り、揺り戻しがあるので、お勧めできません。

サルマン皇太子が「悪王」カテゴリーに入らず、サウジアラビアが改革を成し遂げることを東の国から祈っています。

味わい深い余韻でした。ご馳走さまです。


 これが沈尹戌の魯(にぶ)さである、ともいえようが、じつは大国である楚の王族と貴族が共通してもっている鈍感さであるともいえる。かれらはそろって危機意識がうすい。人や物を上から瞰(み)るばかりのかれらに、いちど地を這ってみよ、といってもむだなのである。
 軍制の点でも、おなじことがいえる。
 長年、呉軍にふりまわされ、負けつづけてきたという事実がありながら、改善のための努力をおこたった。王族出身者が王朝の上位を占めるという古来の体制が、軍制の改革をゆるさなかったともいえる。私兵の集合体である楚軍の質の向上は、私兵を率いている貴族にまかされている。王でも、令尹でも、それに関して指導はしない。それゆえ楚軍は、ひとつの軍法のもとにすべての将士がある、という整斉をもちようがない。もっとも軍法を諸将の上に置くような先駆的な思想を披渥しだのは孫武であり、楚にかぎらず、中原の先進国でも、軍法は軍や隊を掌握している諸将の下にあると想ったほうがよい。(p76)
スポンサーサイト
COMMENT









Trackback URL
http://8ru.jugem.jp/trackback/503
TRACKBACK