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「自然淘汰」無双、人類も洗礼を受けた・・らしい?
本書が比較人類学にカテゴライズされるとなると、頻繁に出てくる「合衆国東部」という表現って適切なんでしょうか。

サピエンス全史を超えられなかった
ある白人から見た人類史っぽいやつ


表記が並列化されてなかったり、著者の主観から見える事実の森の中を連れ回される感じがして、正直、頭にあまり入ってこなかったです。はい。。

例えば、「食糧生産が独自にはじまった地域」で上がっている地域の表現。

 ・肥沃三日月地帯
 ・中国
 ・中米
 ・アンテス地域及びアマゾン川流域(?)
 ・ニューギニア?
 ・エチオピア?
 ・サヘル地域?
 ・西アフリカ?

国名と地域名が混在、他の地域の抜け漏れ(十分な考察が言及されないまま)などなど。MECEじゃないよう!と涙がこぼれました。
「食糧生産が独自にはじまった地域」とタイトルを書いているわけですから、中国ではなく「黄河・長江流域」とか、中米でなはなく「ユカタン半島周辺」のように表記してほしかったです。


ちなみに、サピエンス全史と共通するのは、

 ・人類が進出したことで、大型生物が絶滅した
 (本質的な環境破壊を止めようと思うと、人類の生存領域を狭めないといけない)
 ・農耕民が狩猟採取民より貧しくなった

の2点。


興味深いなと思ったのは、同じ祖先をもつマオリ族モリオリ族の話。
環境要因から、一方は余剰生産がてき、複雑な社会構造をうみだし、一方は単純な社会構造をうみだしました。住んでいる環境によって、富の貯蔵がかわる、という至極当たり前の事実だけど、確かにそうだよなと事例を見せてもらって納得度アップです。

あと個人的に、どうしても組織論と絡めたくなるんですが、イチゴが自然淘汰の過程を経て現在の形になった話。
やはり、自然淘汰は原理としては最強で、逆らいようがありません。
イチゴのように組織も自然淘汰の原理のもとで進化をするわけで、誰かが意図して進化させようとしても、長い目で見ると、生き残れないのだろうなと思いました。園芸種の花とか、人間いなくなったら、環境変化に適応できず、すぐに絶滅しそう。

下巻も新たな地平線が見えそうにないので、読み止めです。

以上、ごちそうさまでした。
 どうして多くの大型動物がほぼ同時にいなくなってしまったのだろうか。絶滅の原因としてすぐに思いつくのは、最初の移住民によって殺されてしまったか、間接的に滅ぼされる結果になってしまったのではないか(ということである。オーストラリア・ニューギニアの大型動物は数百万年ものあいだ、狩りをする人類のいないところで栄えてきた。人類と出会うことなく長いあいだ生息してきたという意味では、ガラパゴス島や南極の哺乳類や鳥類も同様であるが、彼らは救いがたいほどおとなしい。これらの人間を怖がることを知らない動物たちは、自然保護主義者がすみやかに行動していなかったら絶滅していただろう。過去数百年内に発見された島々のなかには、保護措置が迅速にとられなかったため、実際に動物が絶滅してしまったところもある。たとえばモーリシャス諸島のドードーは、絶滅種の象徴となっている。また、先史時代に人類が住みはしめた島々を研究すると、どの島においても人類の登場につづいて動物種が絶滅している。そうしたかたちで犠牲になったものとしては、ニュージーランドのモア、マダガスカルのキツネザル科のメガラダピス、ハワイの飛べない鳥のハワイオカヨシガモなどがよく知られている。ちょうど現代人が、人間を怖がることを知らないドードーやアザラシに歩み寄って殺したように、先史時代の人間も、おそらくモアやメガラダピスに歩み寄って殺したのだろう。
 アフリカやユーラシアの大型動物のほとんどは現代まで生き延びてきているが、それは、彼らが何百万年もの進化の時間を初期人類と共有し、人間を恐れることを学習したためである。われわれの祖先は最初は稚拙だった狩猟技術を長い時間をかけて上達させていき、その間に動物たちは人間を恐れることを学んだのである。これに対してドードーやモアなどの飛べない鳥、またオーストラリア・ニューギニアの大型動物は、準備する時間もないまま、突然、発達した狩猟技術を持つ現生人類によって侵略されるという不幸に見舞われたのだろう。これが、オーストラリア・ニューギニアの大型動物は四万年前に初期人類によって殺戮されてしまったという仮説の根拠である。
 この殺戮仮説には、反論がないわけではない。たとえば、人間によって殺された証拠を示す大型動物の骨が見つかっていないのである。オーストラリア・ニューギニアで、それらの大型動物と人間とのかかわりが存在したことを示す確実な証拠もいまだに見いだされていない。殺戮仮説を批判する人たちはこの点を強調する。これに対して、この仮説の擁護者たちは、四万年前というはるか昔にあった殺戮が数千年という短いあいだに終わってしまったのだとしたら、その痕跡を見つけるのはむずかしいと反論している。それに対して批判論者たちは、大型動物は人間に殺されたのではなく、すでに乾燥状態にあったオーストラリア大陸がひどい干魅に見舞われ、その気候的変化のために死に絶えたのではないかという仮説で対抗している。(p59-61)




考古学の研究によれば、多くの地域において最初に農耕民になった人びとは、狩猟採集民より身体のサイズが小さかった。栄養状態もよくなかった。ひどい病気にもかかりやすく、平均寿命も短かった。これがみずからの手で食料を生産するものの運命だと知っていたら、最初に農耕民になった人びとは、その道を選ばなかったかもしれない。それなのに、なぜ彼らは農耕民となる道を選んだのだろうか。

 狩猟採集民のなかには、近隣の住民が食料生産をおこなっている姿を見ていながら、その恩恵にあずかろうとはせず、狩猟採集生活をつづけた人びとも多い。たとえば、オーストラリア北東部の先住民は何千年ものあいた、オーストラリア大陸とニューギニア島のあいたに位置するドレス海峡諸島の農耕民と交易していたにもかかわらず、みすがら農耕をおこなうことなく狩猟採集生活をつづけていた。カリフォルニアのアメリカ先住民は狩猟採集生活をつづけながら、コロラド渓谷で農耕をおこなっていたアメリカ先住民と交易していた。さらに、南アフリカのフィッシュ川西岸に居住していたコイ族の牧畜民は、東岸の農耕民のバンツー族と交易していたが、いずれの場合も自分たちで農耕をおこなうことはなかった。それはなぜだろうか。
 これとは対照的に、農耕民との接触を契機に農耕をはじめた狩猟採集民もいる。しかし、そうなるまでには恐ろしく長い時間を要している。たとえば、ドイツ北部には線帯文土器文化圏の人びとによって農耕が伝えられているが、そこからわずかコー五マイル(約二〇〇キロ)北に行った海沿いの居住民たちが食料生産をはじめたのは、ドイツ北部に農耕が伝わってからしつに一三〇〇年たってからのことである。そんなに長いあいだ、彼らはなぜ待っていたのだろうか。そして、それだけ待ったあげく、彼らはなぜ気持ちを変えたのだろうか。

 食料生産の発祥
 これらの疑問に答える前に、人類が食料生産をどのようにはじめたかについてもう一度考えてみよう。というのも、人類の食料生産の起源については、間違った思い込みがいくつかあり、それらを一掃したうえで、前記の疑問を別のかたちで問いかけてみたいからである。まず、人類が食料を生産する方法を「発見した」とか「発明した」とかいうのはわれわれの思い込みであって、事実ではない。
狩猟採集生活をつづけるか、それともそれはやめにして食料の生産をはじめるかという二者択一で、農耕民になることを意識的に選択した例は、現実にはほとんどない。食料の生産を最初に自発的にはじめた人びとは、地球上のどの地域においても、誰かが農耕をしている様子をそれまで見たこともなければ、農耕とはなんであるかもまったく知らなかった。だから、彼らが意識的に農耕民になろうとすることなどできるはずがない。人類による食料の生産は、これからわれわれが考察していくように、こうするとどんなことが起こるかを意識することなしに、さまざまな決定を下していった結果の副産物としてもたらされたものである。したがって、われわれが問うべき問題は、人類による食料生産がどのようにはじまり発展してきたかということであり、食料生産がはしまった場所とはじまらなかった場所があるのはなぜかということであり、食料生産がなぜもっと早い時期にはじまったり、もっと遅い時期にはじまったりしなかったかということである。
 もうひとつの間違った思い込みは、移動しながら狩猟採集生活を営む人たちと、定住して食料生産に従事する人たちとははっきりと区別されるものだ、という考え方である。われわれはこの二つのグループを対比させて考えることが多いが、自然の恵みが豊かな地域の狩猟採集民のなかには、定住生活には入ったものの、食料を生産する民とはならなかった人びともいる。北アメリカの太平洋岸北西部の狩猟採集民などはその例であるし、おそらくオーストラリア南西部の狩猟採集民もそうだろう。パレスチナ、ペルー沿岸、そして日本に居住していた狩猟採集民も、食料を生産するようになったのは、定住生活をはじめてから相当の時間がたってからのことである。現在、世界には生産性の低い地域で侈助しながら狩猟抹実生活を送ることを余儀なくされている部族が若干残されているが、一万五000年前には、もっとも生産性の高い地域をふくむ居住可能な地城に定住していた人たちは、相当の割合で狩猟採集民であっただろうと推測される。
 定住しながら狩猟採集生活を営む人びととは逆に、定住せずに移動しながら食料生産をおこなう人たちもいる。たとえば、現在もニューギニアの湖平野に暮らす部族のいくつかは、密林地帯を移動しながら農耕をおこなっている。彼らは密林の中で畑を作り、バナナやパパイアを植え、しばらく狩猟採集生活を送り、何力月後かに戻ってきて作物の生育状況を調べる。そのとき下草や雑草が茂っていればそれを取り除き、また狩猟採集生活に戻り、何力月かあとにまた同じ場所に帰ってきて、収穫した作物を食べながら畑のそばで暮らすという生活をしばらく営み、やがて別の場所に移動する。また、アメリカ合衆国南西部に居住していたアパッチ・インディアンは、夏になると北の高地で定住しながら農耕生活を送り、冬になると南の低地で移動しながら狩猟採集生活を送っていた。アフリカやアジアの遊牧民の多くは、決まったルートで野営地を移動させ、季節ごとに最適の牧草地の近辺に野営しながら家畜を飼育している。このように、狩猟採集民から食料生産者への転換は、かならずしも移動生活から定住生活への転換を意味するものではない。(p150-153)




 食料生産と狩猟採集の関係

 この章では、農耕が自然発生的に起こった三つの地域について考察してきた。これらの地域は、それぞれ異なる発展形態を示しているが、肥沃三日月地帯をそのひとつの例とすれば、ニューギニアと合衆国東部はその対極に位置するといえる。肥沃三日月地帯の人びとは、ニューギニアや合衆国東部の人びとよりずっと早い時期に、土着の野生植物を栽培化している。より生産性の高い植物、より有用な植物を栽培化し、より多様な作物を作りだしている。集約的な食料生産システムを発展させ、地域の人口密度をより早期に増加させている。その結果、肥沃三日月地帯の人びとは、ニューギニアや合衆国東部の人びとにくらべて、歴史上より早い時期に、より発展した科学技術、より複雑な社会構造、そして、他民族に感染しやすい伝染病に対する免疫力を発達させたのである。
 われわれは、これまでの考察を通じて、このようなちがいは、入手可能であった野生動植物の差が原因となって引き起こされたものであり、肥沃三日月地帯、ニューギニア、そして合衆国東部の人びとの特性のちがいが原因ではないことを理解している。その証拠に、よそから生産性の高い作物が伝わってくると、ニューギニアの人びとはサツマイモを、合衆国東部のアメリカ先住民はメキシコ原産の三種類の作物をただちに栽培しはじめ、集約的な食料生産を実践して、それぞれの地域の人口を大幅に増加させている。このことから、カリフォルニア、オーストラリア、アルゼンチンの大草原、西ヨーロッパなどといった独自に食料生産を開始しなかった地域においては、食料の生産が限定されたかたちながら独自にはじまったニューギニアや合衆国東部よりも、栽培化や家畜化に適した野生の動植物が稀少だったのではないかと推測される。実際、前述のマーク・ブルーマー博士の世界各地の調査における大きな種子を持つイネ科植物の研究や、次章でとりあげる世界に分布する大型哺乳類の研究によれば、独自に食料生産を開始しなかった地域や、きわめて限定された食料生産しか実践されなかった地域には、栽培化可能な野生の穀類や、家畜化可能な野生動物の原種は分布していなかった。
 すでに指摘したように、人びとが食料の生産をはじめる裏には、「狩猟採集生活」対「農耕生活」という生活様式の競合がある。この点を考慮すると、独自に食料生産を開始しなかった地域や、食料生産を開始したのが歴史上きわめて遅い地域では、狩猟採集可能な自然資源がずば抜けて豊富であったことが影響してそのような結果になったのであって、栽培飼育化に適した野生祖先種が入手不可能であったからではないのではないか、という疑問が浮かんでくる。しかし実際には、それらの地域は、狩猟採集民にとって豊富な資源に恵まれているというより、むしろそうした資源にきわめて乏しい環境だった。オーストラリアやアメリカ大陸では、ユーラシア大陸やアフリカ大陸とはちがい、大型の哺乳動物の大半が氷河期末期までに絶滅してしまっていたので、「狩猟採集生活」対「農耕生活」ということでいえば、オーストラリアやアメリカ大陸は、肥沃三日月地帯よりも、食料生産が狩猟採集と競合するような環境ではなかったと思われる。したがって、オーストラリアやアメリカ大陸では、人びとが豊富な狩猟採集資源に恵まれていたので、独自に食料生産を開始しなかったり、開始したのが非常に遅かったと考えることはできない。(p227-228)
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