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メンツにこだわって現場を見ないリーダー、ヤダー怖いー
リーダーに恵まれなかったら
オー人事、オー人事


ってのは何も21世紀だけの問題じゃなかった。

神聖ローマ帝国皇帝カール5世しかり、その後を継いだスペイン王フェリペ2世しかり、現場知らないのに強気なリーダーの実害がやばい。しかも、どんなに現場を引っ掻き回しても、最終責任をとるのはその家臣。なんなんだ、そのゲーム。

潔く、現場を知っている人に指揮権は譲りましょう。
(そうならなかった時の被害状況は後述の引用部分を参照のこと)

上巻では無双っぷりを発揮していたサラセン人海賊ですが、下巻になるとジェノヴァからキリスト教側のドン、アンドレア・ドーリア提督が出てきます。ほぼ常勝だったこともすごいドーリアですが、何よりすごいのは引退年齢。少なくとも、84歳で、海賊の本拠地を叩きに行った記録が残ってます。どんな体力してるんや。。

最後に。

「良識とは、受身に立たされた側が口にする言葉であり、行動の主導権をにぎった側は、常に非常識的に行動するものである」

というプレヴェザ海戦の直後、ヴェネツィア外交官が放った言葉が胸にしみます。
日本を取り巻く環境がきな臭くなってますからね。

こちらも2・3日で読み終えられました。ごちそうさまです。
 外交では、右手で殴っておいて左手を差し出す、というようなことをよくやる。手を差し出すくらいならば殴らなくてもよかったではないか、と言う人は、善意の人であることは認めるが、外交とは何かはわかっていない、と言うしかない。もちろん、殴らないで済めばそれに越したことはない。だが、殴られて初めてOKする、という例が多いのも事実であった。
 この時代の人であったマキアヴェッリは、憎悪されても軽蔑だけはされてはならない、と書いた。また、政治では愛されるよりも怖れられるほうを選ぶべきだ、とも書いている。なぜなら人間は、自分を愛してくれる人は簡単に捨てるのに、怖れている相手からは容易には離れられないからである、と言うのだ。個人の間の問題ではなく国と国の間の問題をあつかう外交では、軽視されたり軽蔑されたりすることは実害をもたらすことにつながるゆえに、絶対に避けねばならない最重要事なのであった。(p67-68)



 そうこうするうちに、冬に入った。この時期のマルタ島はまだ、イタリア人のエンジニアを招いての城塞化を始めたばかりで、大勢の兵士の滞在に適した町づくりができていない。マルタ島自体も、冬を過ごすのによいのは気候だけで、他には何もなかった。滞在が長びくにつれて兵士たちも、段々と嫌気が増してくる。
 しかもドラグーは、トリポリの防衛にだけ集中していたのではなかった。配下の海賊に命じて、南イタリアを襲わせるというやり方で、後方攪乱作戦も展開していたのである。兵士には、南伊から志願してきた者も多い。故郷が荒らされ家族が拉致されているのかと心配する彼らの中で、船を盗んで脱走する者が出るようになった。
 ジャンアンドレア・ドーリアが、トリポリ遠征は中止して帰国してはと言い出した。だが、スペイン王の代理としての任務をまっとうすることしか頭にないメディナチェリは、王には指令を仰いだから、それへの回答が届かないかぎりは変更できない、と言い張る。そして、王からの指令はいっこうに届かなかったのである。こうしているうちに年が明け、一五六一年になった。

 一五六一年二月十日が、トリポリ遠征の再開の日になった。二月に海に乗り出すなど狂気の沙汰だが、なぜこれが決まったのかはわかっていない。実際、冬に出港する危険はすぐにも現実になった。出港から数日後には早くも嵐に見舞われたのだ。それで、トリポリに向って南下するところが大きく西南に流され、ジェルバに近いアル・カンターラという名の浜辺に漂着してしまったのである。
 やむなくそこに上陸し、飲料水の補給ぐらいはしようということになる。だが、海賊たらの巣窟として名高いジェルバ島のすぐ近くだ。またそこには、ベルベル人の集落があった。

 海賊と土着民の襲撃を受け、水の補給どころか、百五十人もの兵士を殺されてしまう。それに加えて悪質な水を飲んだためか、病人が続出した。ジャンアンドレア・ドーリアも、病床から離れられなくなる。
 これでは発つしかないとなったのだが、発つ船という船に負傷者と病人が収容され、まるで病院船のようになる。これがまた、兵士たちの士気をさらに低下させた。
 それでも二月十七日、発つには発ったのである。だが、向ったのは、マルタ島でもメッシーナでもなく卜リポリだった。スペイン王代理のメディナチェリが、王がトリポリ攻を撤回してこない以上はそれをつづけるしかない、と言って譲らなかったのだ。メディナチェリは遠征軍の総司令官であり、最終決定権は彼にあった。
 アル・カンターラからトリポリへ向う間も、常識では考えられないことがくり返された。途中の浜辺で艦隊を止め、トリポリ攻撃に使える人間を数える作業を始めたのだ。しかも、この作業だけに十三日もかかる。これも、王の兵士を率いていくからにはそれが何人になるかは知る義務がある、というメディナチェリの主張から始まったことであった。
 三月二日に将たちを召集して開かれた作戦会議で、二千人という、使えない兵士の数が判明した。敵の顔さえも見ていないというのに、二千人もの兵士が戦線から脱落したことになる。
 これに仰天したメディナチェリが、トリポリはやめてジェルバ島に目的地を換えると言い出した。ただ単に、ここから向うにはトリポリよりジェルバが近いということを根拠にしただけの、目的地変更だった。作戦会議では、マルタ騎士団の団長に就任していたラ・ヴァレッテを始めとして反対意見が多かったが、それでもメディナチェリは譲らない。この、地位ならば他の誰よりも高位になる男の頭を占めていたのは、手ぶらでフェリペニ世の前に出るわけにはいかない、という一事だけであったのだ。

 (中略)四月四日、マルタの五隻を率いて参加していたラ・ヴァレッテの許に急報が届いたのである。ただちに彼は、作幟会議の召集を求め、その席で、丸太の防衛に変える必要から、一隻は残しても他の四隻は攻撃から脱けざるをえない、と言った。列席していたオルシーニは、このとき初めてヴェネツィア情報が現実になったのを知った。それで、マルタ騎士団のみでなく全軍の撤退を主張したのである。メディナチェリは、もはや決断力を喪失してしまったかのように、頭をかかえるばかりだった。ラ・ヴァレッテは、結論が出るまで待たなかった。マルタ騎士団の四隻はこの直後、ジェルバの港から発って行った。季節は四月、無事帰還のみを考えて全員で逃げるとすれば、今がその好機だった。

 しかし、このときも時間を空費する。作戦会議は毎夜のように開かれていた。だが、結論のほうは、そのたびに先送りをつづけたのである。撤退を主張するのはオルシーニ一人ではなく、病いが癒えて会議に出るようになっていたジャンアンドレア・ドーリアも、今では明らかに撤退派だった。だが、シチリアの「副王 ヴィーチェ・レ」でスペイン王の代理格のメディナチェリの、不決断はいっこうに改まらない。それでなんと、マルタ騎士団が発った後も1ヵ月、空費してしまったのである。こうなれば当り前だが、ピラル・パシャの八十隻は、ラ・ヴァレッテが四隻とともにもどってきたために守りが一層強化されたマルタ島には手を出さず、もともとの目的地であるジェルバに向って南下し始めていた。

 いっこうに決断を下そうとしないメディナチェリを前にして、若いドーリアが新戦略をもち出した。
 おそらく明朝、ピラル・パシャの八十隻はジェルバの前に姿を現わす。それゆえ、ジェノヴァ船十三隻は、自分が率いて今夜のうちに出港し、岬の反対側に隠れて夜明けを待つ。そして、敵の八十隻がジェルバ港に入るや、その背後を断つ。敵は八十隻でも、前面の城塞と港内の味方の船からの砲撃と、後方を押さえるわが十五隻からの砲撃を同時に浴びて、手をあげるしかなくなる。これが、二十二歳の若きドーリアの戦略だった。
 メディナチェリはこの案を、全面的にしりぞけたのではない。だが、そのままでは同意しなかった。スペイン王の代理ともあろう自分が二十代の若者の意見をそのまま受け入れては、面子にかかわるのだ。トップよりもトップの代理のほうに、面子を重んずる人が多い。それでメディナチェリが提案したのは、いや総司令官でもあるので命じたのは、彼に言わせれば、折中案であるがゆえに最良の案というものだった。

 それは、ドーリア率いる十三隻の出港は、今夜ではなくて明朝早くにする、というものである。それでジェノヴァ船の出港は、翌五月十一日の早朝と決まった。
 ところが、夜明けが近づく頃になって、風が北風に変わったのである。この風では、出港には逆風になる。逆風でもジグザグならば進める三角帆と現代のモーターに当たる擢で行くのがガレー船なので、出港がまったくできないというわけではない。だが、敵が間近に迫っているときに、速度の落ちた状態での出港が危険であることは、漕ぎ手でさえも知っていた。
 全員が、パニック状態になった。
 それでまたも時間を無駄にしているうちに、若きドーリアが予想したように敵が姿を現わしたのである。敵の八十隻は、北風を背に受けている。この順風を活かして、ウルグ・アリ率いる前衛の二十隻が、ジェルバの港内に突入してきた。

 港内は大混乱に陥った。誰もが、城塞に逃げこもうとする。船上にいた者までが、船を捨てて城塞に向って走った。
 ウルグ・アリは、率いてきた船のトルコ兵たちを上陸させて、逃げるキリスト教側の兵士を追わせなかった。それよりも、港内に停泊していた「キリスト連合」の船の捕獲を先行したのである。防衛兵が逃げてしまったので、多くの船は事実上、無防備の状態になっていたのだ。たちまち、港の入口の近くに錨を降ろしていた二十隻が囲まれた。
 この間に、ピラル・パシャ率いる本隊も港の中に入ってきた。八十隻が一団となっての、「キリスト連合」艦隊の”狩猟”が始まったのである。これは、「戦闘」ではなく「狩り」でしかなかった。

 (中略) スペイン王フェリペニ世の提唱で始まった、トリポリ奪回を目的にした「キリスト連合」は、こうして終わった。損失は、次のとおりである。( )内は、この遠征に出発したときの数を示す。
   ガレー船    二十九隻(五十三隻)
   輸送用の帆船  十四隻(四十隻)
   戦死者総数   一万八千人(二万五千人)

 これが、一五六一年に行われた遠征の、厳しい現実である。ドラグーが守るトリポリを攻めるはずが、ドラグーと顔を合わせることなく自滅してしまったという、「キリスト連合」の結末であった。

 もちろん、この敗北の責任を、スペイン王に問う声すら起らなかった。その王の代理として参戦していたメディナチェリの「副王」の地位もゆるがず、以後もシチリアの統治者でありつづける。ジャンアンドレア・ドーリアも、スペイン王の傭兵隊長でありつづけた。
 しかし、歴史上では「ジェルバの虐殺」と呼ばれるこのときの敗北が、地中海世界に影を与えないはずはなかった。人は、自信をつけると、その人のもっていた資質以上の働きをすることがある。「ジェルバの虐殺」以後の海賊たちが、まさにそれだった。
 だがそれも、当然ではなかったか。
 二十年前にはアルジェ攻略を期したカルロスを敗退させ、今度は、トリポリ攻略を期したフェリペの軍を敗退に追いやったのである。わずか二十年の間に、ヨーロッパ最強のスペインの王である父と子を、二度までもつづけて敗退させたのだ。海賊たちが、オレたちの天下、と思ったとて当然である。いかにトルコ帝国の後援があろうと、前線で闘っだのは彼らであったのだから。(P264-275)
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