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「駆逐してやる!!この世から、一匹残らず!!」をお互いに言い合う世界
驚き、驚き、そして、驚き!

中世・近代ヨーロッパにメッチャ興味ある人、必見。
この一冊を読むことで、歴史の周縁部においやられがちな、地中海沿岸のヒストリー(主に海賊怖い、の一事)に明るくなります。

「オレ、中世・近代のヨーロッパ史、そこそこ知ってるし」

とピノキオだったぼくの鼻が見事にへし折られました。ボキッ…

泥沼の宗教戦争とか、百年戦争とか。近代の主役は大航海時代を制したヨーロッパだ!と思っいたら、それはヨーロッパ北西岸の話。地中海に面する南側はフランス革命頃まで、庶民は海賊に怯える日々を暮らしていたのでござる。という衝撃。

※北アフリカ西岸の浴場(強制収容所)に拉致されたキリスト教徒を救う活動の終了が西暦1779年。フランス革命の10年前。救出騎士団の設立が1218(1222年)だから、およそ600年近く地中海北西部沿岸に住む人が拉致されていた、という

地図上ではキリスト教圏なのに、領地が定期的に海賊の略奪に遭って、内陸にある山岳部でさえ安全ではなかった。ローマ法王だって2万5千枚の銀貨を渡して「襲わないで!」と嘆願していた。

イタリア半島だけでなく、南フランス(プロヴァンス)まで、沿岸部分は海賊になで斬りされていたのも衝撃ですが、法王が在しますローマの北西、街道一本でつながっている海港チヴィタベッキアや北東のサラチネコでさえイスラム勢力に占拠され、法王庁領土も狩場にされていたというのにも衝撃を受けました。


どれだけ海賊無双なんだ。。

しかし、略奪の波状攻撃で動産・不動産にかかわらず壊滅的な被害を与えたにもかかわらず、それで満足してくれない海賊。奴隷市場に供給する人狩りをするために、荒野に彷徨う老略男女をかっさらって行きます。なんだか進撃の巨人から逃げる人間、みたいな構図が600年近く、地中海世界ではあったわけですね。

ちなみに、現象に対する考察や込み入った分析は、本書執筆前に刊行されている諸書籍に書かれているので、本作は事実を抑えてスラスラと歴史の針が進んでいく印象です。

よって胃もたれもなく、2日で読み終えました。
ごちそうさまです。
 名著『フェリペニ世時代の地中海世界』の著者であるフェルナン・ブローデルも、次のように言っている。
 「通貨とは、それのみで孤立して存在する史料ではない。経済上社会上のあらゆる事象と、密接に結び合っている史料である。それゆえに通貨は、歴史を知り理解するには最適の指標でもあるのだ」(p247)




 この「騎士団」が行った最後の救出行は、西暦一七七九年である。その十年後に、フランス革命が起る。啓蒙主義の時代になっても、救出さるべきキリスト教徒の奴隷たちはいたのであった。

 設立年は一二一八年で一二二二年から第一回目の救出行を開始した「救出騎士団」は、実に五百五十七年間にわたって活動をつづけてきたのである。この間に、三百四十四回の救出行を実行している。平均しても、二年に一度強、になる。
 「修道会」に比べて「騎士団」のほうは、史料が相当な程度に残っているので活動を追う作業も比較的にしろ容易だったが、それでも救出した人の正確な総数は把握不可能であった。なぜなら、救出者が百人を割った場合は記録しないことが多かったからで、それは「修道会」でも同じだった。それゆえ、「修道会」と「騎士団」を合わせれば、救出しか人の数は百万人に達するという研究者の言も、簡単には否定できないように思う。なにしろ、この二団体の活動期間は、五百年から六百年の長きにわだったのだから。また、その間、救出活動の途中で命を落とした修道士や騎士もはかり知れない数にのぼるのであった。

 そして、両団体とも、地位もないために国家は動かず、資力がないゆえに身代金も払えない人々の救出のみに徹したのは、救出された人々の中に有名な人が人もいないことが実証している。五百年以上もの間この鉄則を守り抜いたのだから、文字どおりの徹底さであった。
 唯一の有名人は、『ドン・キホーテ』の作者のセルバンテスだ。この人は西暦一五七一年の「レパントの海戦」に参戦して片腕の自由を失っていたのだが、故郷のスペインに帰る途中で海賊に捕われたのだった。アルジェの「浴場」で、二年間の奴隷生活を送ることになる。まだ二十八歳だったセルバンテスは一度脱出を試みたが失敗して、両手両足とも鎖つきの要注意囚にされてしまう。それでも自由を回復できたのは、「救出修道会」が買いもどした中の一人であったからだった。『ドン・キホーテ』はその後に書かれるのだから、世界文学史を飾るセルバンテスも、当時は無名の哀れな人の一人にすぎなかったのである。つまり、「修道会」や「騎士団」が、救出の対象にしていた、庶民の一人なのであった。
 イスラム教徒たちの呼んだ「ラキーク」(キリスト教徒の奴隷)を収容していた「浴場」だが、これが何か、なぜこの名で呼ばれていたのか、について答えてくれた研究書は、私の知るかぎり一書もない。それでやむをえず想像するしかないのだが、市内にあって大勢の人々を一箇所に収容できる施設となると、古代ローマ時代の大公衆浴場の廃墟ではなかったかと考えている。ローマ人が建てた大規模な建造物のうちでも円形闘技場や競技場は、市外にあるのが普通だった。市内の大規模な建造物は、広場を中心にしたフォールムか、公衆浴場しかない。


 イスラム教徒は、同時代のキリスト教徒に比べて衛生観念が強く、入浴を罪悪視してはいなかった。だが、ローマ式の大浴場を浴場として活用するには、建造物さえあればできるというものではない。まずもって、大浴場に水を供給する、水道が常に機能していなければならない。水に加えて、燃料や人のシステム化も欠かせない。ローマ式の大浴場は、すべての面で組織が成されていないと、機能できない施設なのである。
 ローマ帝国の東方ではイスラム教徒も、ローマ時代の浴場を修復して使っていたが、それも全体ではなく一部であった。北アフリカというイスラム世界の西方では、一部でさえ活用できてはいなかったのではないか。それゆえ、廃墟になっていても屋根は残っているローマ時代の大浴場を、奴隷を入れておく強制収容所にしたのではないだろうか。
 この種の「浴場」のあった海港都市は、そのほとんどがローマ時代からの都市であり、古代のローマ人は都市ならばどこにでも公衆浴場を建てた民族であった。
 現代の辞書では、強制収容所を浴場と呼んだ、としか説明していないが、それも、古代からの呼び名ではなく、中世時代のイスラム社会での強制収容所、になって後からではないだろうか。なぜなら、あれほども入浴を愛したローマ人が、大公衆浴場を「庶民の宮殿」と呼ぶほどに芸術作品で飾り立てた古代のローマ人が、捕虜や奴隷を収容しておく場所を、「浴場」と呼ぶとはどうしても思えないのである。だがこれも、あくまでも私の想像にすぎないのだが。

 現代ではもはや、地中海には海賊は出没しない。ではいつから、地中海から海賊が消えたのか。
 西暦一八三〇年に、フランスがアルジェリアを植民地にしてからである。もちろん、啓蒙主義に影響されたフランス人が、人権宣言に反する海賊業の全廃を叫んで、アルジェリアを征服したのではない。自国の植民地にするために、征服したのである。だが、結果から見れば、このフランスを始めとした西欧諸国による北アフリカ一帯の植民地化で、地中海がようやく、海賊の脅威から解放されたのも事実であった。
 ということは、ここまでに述べてきた時代の後も、十九世紀の前半までは、地中海には海賊が出没していたということである。
 しかし、海賊も社会現象の一つである以上、時代の変移とともに姿を変えていく。それは、簡単に言ってしまえば、緑の地に白く浮き出た半月が、赤い地に白く浮き出る半月に、変わるということであった。(p301-303)
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