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「頼むからちょっかい出さないで」と元ローマ人は言ったにちがいない
ついにシリーズ最終巻。
読了感を誰に伝えたいとマイクを向けられたら、歴史シミュレーションゲームに熱中している全高校生に捧げたい。

領土が広がる=社会が進歩する
じゃないからーーー!!!



国が勃興し、拡大していく過程に興奮を覚えた世界史の授業。
家でやりまくった「信長の野望」や「大航海時代」。

領土拡大=進んだ文明社会の伝播と算盤を弾いて、「領土拡大いいじゃん!」と安直に考えていたわけですが、この巻を読み終えて、悔い改めました。アーメン。


ローマの誕生から消滅まで、著者が給仕する一皿一皿を吟味、反芻しながら感じたことは、領土の広がりとそこで暮らす人の豊かさとは正比例しない、ということ。本巻ではタイトルの通り、「ローマ世界の終焉」に向かっていく顛末が書かれているわけですが、最終盤、東ローマ帝国による元西ローマ帝国領土の奪還運動が酷い、の一言に尽きます。

世界史で誰もが「大帝」つきで覚える、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスによる北アフリカ・イタリア半島の再領有(ゴート戦役)は、蛮族からローマ同胞を解放する善行だとずっと思ってました。そう、世界史の授業で習ったし。

が、現実は破壊に破壊、そして破壊。

ハードのみならずソフト面でも、なんとか残っていた西ローマ・コミュニティを破壊しまくります。

ユスティニアヌスが茶々を入れるまでは、イタリア半島には蛮族による平和、「パクス・バルバリカ」がありました。オドアケル、そして東ゴート王国のテオドリックと、支配者はローマ人ではなくなりましたが、蛮族のリーダーの下、元ローマ人たちは生産性をもちなおします。侵入して生活基盤をぶっ壊していた蛮族が主人におさまったことでむしろ治安が安定したこと、行政・経済システムは既存のローマ人コミュニティの上で運用されたことなどから、末期の西ローマ帝国時代より、元ローマ人の生活は豊かになりました。

が、そこにユスティニアヌスに背中を押された将軍ベリサリウス登場。

ありとあらゆる社会資本の破壊がスタートします。

彼が登場したことで、それまで共存関係にあった、ゴート族と元西ローマ人、東ローマ人(実質ギリシア人)と元西ローマ人、ゴート族と東ローマ人が先の見えない抗争に突入。イタリア半島は荒廃。そして、そのまま「暗黒」と呼び声高い中世へとダイブします。

古代でありながら大都市にして疫病予防に一役買っていた上水道の歴史にとどめを刺したのもベリサリウス。ゴート戦役による、上水道の軍事利用が原因でした。

これだけ頑張って西ローマ帝国領土を再服した東ローマ帝国もゴート戦役で体力を使い果たし、その後やってくるイスラムの大波に飲まれて大破します。ユスティニアヌスが領土欲なんか出さずに、東ゴート族ヴァンダル族とうまくやってたら、たくさんの人が死なずに済んだのに、と思うと、やるせなさで胸がいっぱいになります。胸焼けしそう。というか、歴史ってそんなものか。

読みながら、アメリカの不法移民に思いを馳せました。
「やっぱ、お前は蛮族だ!」といって殺された西ローマ最終盤の救国の英雄スティリコのように、彼らも異国アメリカの地でアメリカ国民同様に共同体に貢献しようと必死です。が、「やっぱりお前は不法移民だ!」といって強制送還されそうです。スティリコと同じ運命を辿るのか。それとも初期帝政ローマのように、一定量、共同体への責務を果たしたら、正式メンバーとして受け入れられるのか。見守りたいと思います。

ごちそうさまでした(この後、「ローマ亡き後の地中海世界」に向かいます)。
  農民から農奴へ

 農業が主要産業であった古代では、生産者を代表していたのは農民だった。その農民の、ローマ帝国が確実に衰退し始める三世紀から五世紀までの動向を、簡単に追えば次のようになる。
 三世紀――大量の、しかもたび重なる蛮族の侵入の前に成すすべもなくなった農民は、耕作地を売り払うか捨てるかして自分の土地を離れ、城壁に囲まれた都市に流入した。地方の過疎化と都市の過密化である。将来に絶望した人々に救済への希望を与えたキリスト教は都市部でとくに広まったが、その温床になったのが都市の過密化であった。
 四世紀――この世紀の前半を彩った二人の専制君主、ディオクレティアヌス帝とコンスタンティヌス大帝によって、あらゆる職業の世襲が制度化される。農民に生れれば、農民で一生を終えねばならないことになったのだ。この政策の強制によって、すさまじい勢いで進行していた地方の過疎化は、そのスピードを落すことならば成功したようである。しかし、侵攻してきた蛮族を迎え撃つ戦闘は、撃退には成功したとしても、ローマ帝国領内が戦場になるのは常態になっていた。つまり、「パクス・ロマーナ」がもどってきたわけではなかったのだ。土地に縛りつけられている農民に再び、平和と安全が保証されたのではなかったのだった。
 五世紀――四世紀の後半から、農民の地方への回帰現象が始まっている。ただし、回帰は回帰でもその内実がちがっていた。帝国の防衛を担当する軍事にたずさわる者の数ならば元首政時代の二倍に増強されていたが、それによって帝国内の平和と安全が、農耕に専念できるほどに保証されるようになっだのではない。ゆえに、耕作地に農民たちはもどってきたが、以前のように「自作農」(アグリクルトール agricultor)としてではなく、大規模農園にかかえられて働く「農奴」(コロヌス colonus)としてであった。グラックス兄弟やユリウス・カエサルが「農地法 レックス・アグラーリア」を成立させることでその育成と確立に努めたローマ社会の中堅層は、もはや昔の話でしがなかったのだ。これでは、自作農出身者が支柱を成していたローマの軍事力の、質量ともの衰微はどうしようもなかったのである。

 しかし、自営農民から農奴への移行を、ローマ人の活力の衰えと批判する前に、彼らの立場に立ったとしたらどうであったろう。
 たび重なる蛮族の来襲は、苦労して収穫した農産物を根こそぎ奪われるだけでは済まなかった。家族全員の身の安全さえも危険にさらされている恐怖を、この人たちは日夜忘れることができなかったのだ。
 また、ローマ帝国全域の平和と安全を保証していた「パクス・ロマーナ」の終焉は、蛮族の来襲のみでなく強盗の群れの横行をも許していたので、農産物を町に運ぼうにも、途中で奪われる危険は常のことになっていた。
 そのうえ、最も課税しやすい職種と見なされていたので、ありとあらゆる名目をつけた税が課されてくる。昔ならば、事実上の永久借款であった公有地の借地料は収益分の10パーセントであったのに、もはやそれでは済まず、研究者の試算によれば、自分所有の農地を耕作する農民でも25から30パーセント、公有地や他の大の所有地を借りて耕作する農民になると50パーセントが、自営農民のふところから出ていくのだった。しかも税金は、貨幣価値変動の影響を受けない金貨で払わねばならない。それでも全収穫物が売れればどうにかなったかもしれないが、その保証は低下する一方であった。

 農奴になれば、自営農民の肩にかかっていたこれらの重圧のほとんどが消えるのである。大農園は、自衛のための自警団を組織していた。大規模な蛮族の侵攻には抗しきれないとしても、蛮族の分隊や強盗団相手ならば対抗できる。また、収穫物を売りさばく心配も、税やその他の公的機関との接触も、すべては主人が考えてくれる。自分と家族は農園主にとっては労働力なのだから、皇帝の命令による徴兵にも、以前のようにびくつくことはない。大規模農園の主人ともなれば元老院議員であったり高位の公職に就いている人が多く、個々の農民では従うしかないことでも、この人々ならば逃げる道があるのだった。

 代わりに失うのは、自由と独立である。しかし、「物」としか見なされていなかった奴隷ではないのだ。農園が売却されるときはそこで働く農奴もともであるのが普通になっていたが、職業の世襲制度で農民でいるしかなくなった時代、自由と独立よりも安全と食の保証を優先したとしても、国力の衰微による弊害を最も強く受けているこの人々を非難はできなかった。
 遺産の相続とかで主人が代わるのが心配ならば、そのような問題は生じないキリスト教の教会資産に属す農園の農奴になればよい。こちらもときの権力とのつながりは密で、教会や修道院所有の農園に身を寄せることで安全と食を保証するのは、当時では有効な選択であったろう。中世の農業をささえることになる地方豪族と教会所有の大荘園は、こうして生れたのである。
 自作農から農奴への移行現象を一言で言えば、寄らば大樹、である。だが、「国家」(レス・プブリカ res publica)が本来の責務を果さなくなれば、個人は自分で生きのびる道を見出すしかなかった。
 しかし、国家にとっては、農民と言えば農奴でしかなくなっても生産性は維持されればまだ救いはあったが、それも低下する一方であったのだ。原因は、これまでに述べた自作農の生産性の低下と同じだが、これは「工」と「商」の生産性の低下と互いに影響し合い、ローマ帝国の経済力全体の生産性の低下につながっていったのである。

 そして、経済力の低下は人口の減少につながる。まず、やむをえず結婚できない人が増える。それはイコール、出生率の低下につながる。これに加えて、栄養が充分でなければ肉体の抵抗力は減退するから、病気にもかかりやすくなる。また、入浴を歓迎しないキリスト教の普及によって肉体を清潔に保つ生活習慣も失われていたので、蛮族や強盗に殺されなくても病気で死ぬ者が増えていた。農民の地方への回帰現象を計算に入れたとしても、四世紀末から五世紀にかけての大都市の人口の減少は劇的でさえある。
 二世紀には百五十万はいたと言われる首都ローマの人口は、四世紀に入る頃にはすでに半減していたのが、その世紀の末ともなるとさらに減り、三十万には近づいていたであろうと、研究者たちは推測している。「世界の首都」の面影は、この面でも薄れる一方であった。

  生産しない人々の増加

 しかし、四世紀後半から五世紀のローマ帝国にとっての真の問題は、生産者数の減少と生産性の低下に反比例するかのように増加していた、非生産者の数にあったのだ。軍人と官僚が二大非生産者だが、それに加えてキリスト教会関係者という、数でも力でも前二者に優るとも劣らない人々を、国家ローマは養っていかねばならなかった。なにしろキリスト教は、もはや完全にローマ帝国の国教である。しかもこの新しい国教と従来のローマ宗教のちがいは、一神教と多神教であるだけではなく、専業の聖職者階級の有無にもあった。神に仕えることが主たる任務である以上は、そのための環境を誰か他の人が整えてやらねばならない。修道院には畑があると言われそうだが、あそこでは生産が目的ではなく、労働することが日的なのだ。神に仕えるのに悪影響をもたらしそうな重労働は、だから農奴にやらせていたのである。また、教会の諸活動に必要な費用は、善意による寄進や教会資産の運用でまかなうのが理想だが、現実の組織は、それではまかないきれないくらいに大きくなっていたのである。
 もちろん国家は、司教を始めとする聖職者全員に、軍人や官僚に支払うたぐいの給料を保証していたのではない。聖職者たちには、教会活動の経費という名目で所属する司教区から支払われる。だが、教会の活動には、ミサや祈りだけでなく慈善や福祉や医療や教育もふくまれていた。元首政時代までのローマでは、福祉は国と地方自治体と裕福な人々が分担し、医療と教育は、それにたずさわる者にはたとえ属州民でもローマ市民権、つまり属州税という名の直接税を免除するという特典を与えることで、民活にゆだねていたのである。しかし、帝国の衰退は、これらの「公」と「私」の絶妙な組み合わせによるシステムを壊してしまっていた。空洞化したそこに入ってきたのが、キリスト教会である。こうして、もともとが彼らの得意の分野であった慈善に加え、福祉も医療も教育も、キリスト教会が独占する状態になっていたのだった。こうなっては世俗の組織である国家も、かたちは何であれ、助成なり支援なりに出ざるをえなくなる。ローマ史研究者たちが、末期のローマ帝国に重圧をもたらした四大非生産者層の一翼として、軍人や官僚に次いでキリスト教の聖職者もあげるのには、このような事情があったのだった。

  公共心の衰退

 欧米のローマ史研究者やその考えを踏襲する学者たちの中には、四大非生産者の最後に、大規模農園の所有者が多かった元老院階級をあげる人が多い。莫大な収入を得ていながらそれを個人の贅沢や豪勢な見世物提供にしか使わなかったことをあげて、帝国末期の公共心の欠如を体現していると非難するのだ。それも、とくに槍玉にあげられたのは、東方の首都コンスタンティノープルの元老院議員や属州の大農園主ではなく、西方にあるローマの元老院階級で、なぜなら前者よりも後者のほうが富裕度では断じて高かったにかかわらず公共心を欠いたのだから、非難される理由は充分にある、というわけである。私も以前は、同じように考え、同じように憤慨していたのだった。ひたいに汗することもない金持階級の利己主義が、ローマ帝国を滅ぼしたのだ、と。
 しかし、今ではそれに大いに疑問をいだいている。

 まず第一に、彼ら大規模農園の所有者は非生産者であろうか。ローマ帝国では、国外に属州をもつのが当然になった紀元前一世紀からは確実に、属州の農業を背負っていたのは大規模農園であり、本国であるイタリア半島だけが共和政時代の伝統を引いて、中小規模の自営農民が主力になっていたのである。都市国家では農民も市民であり、国の行方を決める有権者であったからだ。あの時代からすでに、元老院は大農園所有の砦と見なされていた。この富裕者階級に対して民衆派と目されていたのがグラクス兄弟やユリウス・カエサルで、彼らが自営農民の権利の確立にことのほか熱心であっだのは、国家ローマの中堅層育成という大目的の他に、自分たちの支持層への利益誘導政策でもあったのだった。
 しかし、利益誘導を狙ってであろうと、良い政策は良い政策だ。この自営農優遇策のおかげもあって、最後の最後まで自営農民層が残っていたのが、ローマ帝国の本国であったイタリアなのである。そのイタリアでも末期になると、自作農は農奴になって大農園に吸収されていったのだった。

 この種の社会現象は、現代風に言えば寡占化である。ローマ帝国末期の農業も寡占化による弊害はまぬがれず、農業全体の生産性は低下した。だが、農産物が市場に出てこなくなったのではない。「パクス・ロマーナ」が充分に機能していた時代は農産物の流通も保証され、自営農民が健在であったことで生産性も高く、ために市場に出る農産物の量は多かっか。しかし、この二つが欠けた四世紀末でも、ローマ帝国をたびたび大規模な飢饉が襲ったという記録はない。また、それを推測させる記述もない。以前よりは高い値であったとしても、市場には農産物は出まわっていたのである。それを主として背負っていたのが、大規模農園ではなかったかと私は考えている。
 ならば、大農園の所有者でもあった元老院階級を、非生産者と断ずることはできないのではないか。もともとからして、ローマ人の「別荘」(ヴィラ villa)は田園の家の意味であり、畑を耕し家畜を飼い、葡萄酒(vinum)を始めとする農産物の生産基地であった。本国イタリアではその規模は小さかったのが、帝国末期になると属州並みに大規模農園に変貌しただけである。そして、自営農民が姿を消し農奴が目立つ時代になって、国家全体の「食」まで主として請負うようになったのだった。事実、大農園までが祖国滅亡の害をモロに浴びるようになるや、市場からはほんとうに食が姿を消すのである。

 しかし、五世紀に入りつつあった時代のローマの元老院階級に、公共心が欠如していたことならば確かだった。北アフリカに軍を派遣するに際してスティリコが、元老院がジルドを「公敵」と宣告することを強く欲したのは、この一種の非常事態宣言によってしか、大農園の自警団やそこで働く農奴を兵士として徴兵することができなかったからである。昔でも元老院議員には大土地所有者が多かったが、あの時代では、自分の農園で働く男たちを農園主自らが率いて馳せ参じたものだった。それが今では、農奴を提供しないならば代わりに一人につき二十五金貨を支払えという、要請に対してさえもしぶるようになっている。ローマ史研究者の多くが言うように、帝国末期の元老院階級の利己主義は、これも末期症状の一例かと思うほどにひどかったのである。
 しかし、このこともまた、一千五百年余りも過ぎた二十一世紀からではなく、五世紀の時点に立って見たとしたらどうだろう。
 大農園主たちが自警団や農奴の徴兵命令に抵抗したのは、彼らが農園にいるからこそ自分の家族と資産が守られることを知っていたからである。言い換えれば、国による安全の保証を、信じなくなっていたのだった。

 紀元前一世紀、首都ローマの都心の拡張を考えたユリウス・カエサルは、あの時代のローマを囲んでいたセルヴィウス城壁が都心拡張の障害になることを知り、設計を変更するよりも城壁のほうを壊してしまったう人物は、何ごとも一つの目的だけでする男ではなかった。国家ローマの安全保障は「防衛線 リメス」、つまり国境で成されるべきであって首都の城壁で成されるべきではない、と宣言し、破壊した城壁はそのままで放置したのだった。だが、城壁という公共の建造物を壊す以上はそれなりの大義名分が必要だ。また、カエサルといさせたのである。国家ローマの将来の方向を定めたこの彼の考えは、その後の皇帝たちに受け継がれ、おかげで共和政時代のローマを守ってきたセルヴィウス城壁は各地で寸断され、今ではほんの数力所に石の塊として遺っているだけである。
 それからの三百二十年間、帝国の首都ローマは城壁なしで過ごしてきたのだ。広大なローマ帝国全域をぐるりと囲む「防衛線」が、外敵から帝国を守り抜いたからである。この間ずっと、首都だけでなく帝国中の他の都市までが、夜間の野盗防衛程度の城壁で過ごしてきたのである。それに、「パクス・ロマーナ」とは、国外の敵からの安全の保証に留まらず、国内の敵からの安全も保証しかところにこそ画期的な意味があった。前者が国土の防衛ならば、こちらのほうは公衆の安全だ。第二代の皇帝ティベリウスはことに公衆安全に配慮した人で、この皇帝によって、街道を行くにも田園に住むのにも、格段に安全になったのだった。

 ローマ時代のヴィラとこの後にくる中世時代の領主の屋形の間取りを見るだけでも、そのちがいは歴然としている。ローマ時代のヴィラには、防衛上の配慮が欠けている。低い石壁はめぐっていたが、あの程度では、夜になって森から出て人里に近づく野獣の侵入を阻止するには役立ったろうが、強盗団に襲われでもしたときはどう対処したのだろう、と思ってしまう。だが、ティベリウス帝は、競技場の中央に立つ丸木に縛りつけられ生きたまま猛獣の餌食にされるという当時最高の極刑を、強盗団の首領に科した皇帝でもあった。国の内外ともに、ローマ人の言葉を使えば「セクリタス」(セキュリティーの語源)が保証されてこそ「パクス」(ヒースの語源)になるのである。「パクス・ロマーナ」の真の価値はここにあった。これが過去になった時代に生きることになってしまった人々にとっては、「セクリタス」も「パクス」も、自分自身で保証するしかなかったのだ。
 「共同体」(res publica)と「個人」(privatus)の利害が合致しなくなることも、末期症状の一つであろうかと思ったりしている。そして、公共心も、個人が、自分の利害と自分が属す共同体の利害は連動する、と思えた場合に発揮されるものではないか、と。

 最後の一世紀に入ろうとしていた時代のローマ帝国、とくに西ローマ帝国の元老院階級が、国の防衛力の貧困をよそに豪勢な生活を変えなかったことも事実である。そしてこれは、後世の歴史研究者たちから非難されることの一つでもあった。
 しかし、これもまた、後世からではなくリアルタイムに立つとしたら、弁護も可能になってくる。
 以前に私は、同じように蛮族の侵攻にさらされていたにかかわらず、西ローマ帝国は滅亡し東ローマ帝国は存続した要因を、次のことにあったのではないかという仮説を立てていた時期がある。
 つまり、西ローマ帝国内の富裕階級がより安全と見た東ローマ帝国に避難し、それによって西ローマ帝国の経済力が衰え、経済力の衰えは防衛に投ずる費用の減少につながり、それで蛮族の侵攻を防げなかったのだが、東ローマ帝国のほうは、西から移住してきた人とカネも防衛に投入できたから存続できたのだ、というわけだ。
 しかし、この仮説は今では完全に捨てている。それは、西ローマ帝国の富裕階級の経済力の基盤が、広大な農地にあったことを思い起こしたからであった。土地では、持って逃げるわけにはいかない。彼らは、蛮族侵攻の危険は知りつつも、西方に残ったのだ。学者たちの説によれば、東方の首都コンスタンティノしフルの元老院階級よりも資産力では断じて上であったという西方の首都ローマの元老院階級だが、その人々は、ローマにイタリアに居残ったのである。
 だが、居残りはしたが、持っているカネは、競技会開催や剣闘士試合や猛獣同士を闘わせる見世物に使ったのである。これが後世から、公共心の欠如、と非難されることになる。(p65-73)




  戦役再開

 ペリサリウスが去って行った後のイタリア半島では、予想されたことではあったが、王を敵に取られて壊滅的な打撃をこうむっていたはずのゴート軍に、完全な再起を許してしまう。紀元五四〇年秋、ベリサリウスが去って一年も過ぎていないその年の秋、新たに王に選ばれたトティラの下で、ゴート族は再結集に成功したのである。ビザンチン軍とゴート軍の、イタリア半島を戦場にしての戦争の再開であった。そこに住む人々にとっては、ミラノの惨劇やピチェーノの地獄が、場所を替えてはくり返されることになったのである。

 この状態で、四年が過ぎる。十一人もの指揮官が各自別個に率いるビザンチン軍をほんろうしたのは、トティラの指揮下統一した戦略で戦いを進めたゴート軍のほうであった。しかも、ビザンチン側は、軍事面のみでなく統治でも失点を重ねる。
 安全を保証するという為政者にとっての第一の責務を果せないでいるにかかわらず、ビザンチンの行政官たちは、税金の徴収だけには熱心だった。しかも、行政官僚への汚職収賄は日常茶飯事という、ビザンチン帝国の習慣も移入したのである。イタリア半島に住む人々の感情が、ゴート人のほうに傾き始めたとしても無理はなかった。

 ゴート王トティラは、これを活用する。一言で言えば、清廉と寛容を前面に押し出したのだ。ビザンチンの兵士たちで待遇に不満で脱走してきた兵を迎え入れただけでなく、その兵士たちを使ってまだビザンチン側にいる兵士の脱走を勧誘したりもした。また、自軍のゴート兵には、農民や市民のような民間人を襲撃してはならないと厳命を下す。これまでは別荘に避難している女たちを奪って身代金を要求していたのも、身代金なしで女たちを返すよう命じた。トティラ自身、兵士たちに、ビザンチン軍に勝つのは正しい行いでも勝たねばならない、と説いている。また、ローマの元老院には書簡を送り、その中でゴート王は、親愛なる友のローマ人へ、と呼びかけ、自分たちゴート人は、かつてテオドリックが行ったローマ人との共生路線を踏襲するつもりであると誓ったりしか。これは言葉だけでなく行動でも示され、このゴート側の公正さは、プロコピウスでも認めるしかなかったのである。

 その結果はどうなったか。ゴート人の支配は、それまでの北伊に加えて中伊にまで及ぶようになり、それどころか、ナポリから南の地方、ルカーニア、プーリア、カラーブリアにさえ及ぶようになったのである。つまり、テオドリックの時代ですらもゲルマン系の蛮族の支配圈の外にあった南イタリアまでも、ゴートの支配下に組み入れられたということであった。ビザンチン側に残っだのは、ラヴェンナからローマに至る帯状の地方のみである。押される一方になってしまったビザンチン側にとっての唯一の救いは、アドリア海もティレニア海も、制海権だけはまだ持っていたことだった。(p382-383)





 しかし、専制君主国では、君主は決定はするが責任はとらない。そして臣下は、決定権はないが、責任は取らされるのである。とくにキリスト教国家では、君主は神意を受けて地位に就いている存在であって、その君主に責任を問うということは、神に責任を問うことになってしまう。それはできない以上、君主も責任は問われないのだ。ユスティニアヌス大帝も、臣下にすぎないベリサリウスに対して、キリスト教国家の君主として対したにすぎなかったのだった。ただし、ペリサリウスは召還したが、その代わりは送っていない。(p391)




  イタリアの死

「こうして、プロコピウスが叙述してきた、この戦役の十八年目も終わった」
 と書いて、プロコピウスは『ゴート戦記』の筆を置いている。シチリア奪還から数えれば十八年にも及んだユスティニアヌス帝によるイタリア再復戦争も、紀元五五三年、ようやく終結したのである。ローマ帝国が健在であった時代は帝国の本国であったイタリアは、土地もそこに住む人々も、十八年もつづいたこの戦争によって、考えられないくらいの打撃と被害を受けたのであった。一世紀前の五世紀にくり返された蛮族の来襲よりも、自分たちとは同じカトリックのキリスト教を信ずるビザンチン帝国が始めたゴート戦役のほうが、イタリアとそこに住む人々に与えた打撃は深刻であったのだ。このことは、近現代の歴史研究者の多くも認める事実である。人口は激減し、土地は荒廃し、再興をリードできる指導層も消滅したのだから。
 また、このゴート戦役は、幸いにも生き残れた人々にも、明るい明日を恵みはしなかった。今度は「皇帝代官」の官名でイタリアとシチリアの統治を担当することになったナルセスが、専制君主国の官僚という彼の本質を露わにしてきたからだ。彼は、コンスタンティノープルにいるユスティニアヌスが、戦役に要した費用を取りもどしたがっていることを知っていた。
 皇帝代官ナルセスは、ビザンチン帝国領になったイタリアとシチリアの住民に、すさまじいと言うしかない重税を課したのである。人口は激減し、耕地は荒廃し、生産も低下した状態での重税である。しかもナルセスは長寿に恵まれていたとみえ、「皇帝代官」のままで十五年もイタリアに君臨しつづけたのだ。イタリアとシチリアの住民たちは、十八年の戦争の後になおも、十五年の圧政に苦しむことになる。帝国の本国であったイタリアと首都であったローマの息の根を止めたのは、蛮族ではなく、同胞であるはずの東ローマ帝国であったのだった。(p396-397)
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