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神様「正当性くれってたって……そのオーダー。重いよー」
組織を機能させる「正当性」について、悩んでいる子羊に捧げる一冊。

とどのつまり、

組織構成員の「権威」にたいする納得が
重層的に積み上がらないかぎり、
どこが権威を発行しても、「正当性」は揺らぐよねー


というお話。

ミラノ勅令を出したコンスタンティヌス大帝とその息子、親族を殺しまくったコンスタンティウス。その殺戮から運良く逃れて、跡を継いだユリアヌス+ゲルマン皇帝時代、自然死よりも殺される皇帝が多かった3世紀、ローマの乱れっぷりが書かれてます。

政局の安泰を考えた時に、権威(統治の正当性)の発行元を「市民と元老院」といういつ裏切るかわからない人間から、アンタッチャブルな絶対神に変えることで、政権、安定するんじゃね?と期待したコンスタンティヌス。

神意には人間、逆らえない!
権威の正当性が揺るがない!

と、700年後の王権神授説の露払いみたいな現象が起こしたわけですが、けっきょく、コンスタンティヌスの「神様に権威もらったら、政権安定!万歳!」と叫んだチャレンジは失敗します。あとに残ったのは、より他者にたいして不寛容になった共同体ローマと、脱税や共同体責務から離脱したい人がなだれ込んで肥大化したキリスト教コミュニティー。

この統治の正当性。今もお隣の国々ではどうやって調達するか絶賛煩悶中なわけで。
洋の東西、古今を問わず、「正当性」とは根深い問題なんだなと改めて咀嚼です。

あと、偶像をかたっぱしからぶっ壊した歴史、ここにもあったんだ。。

ちなみに、コンスタンティヌスが水を引いたキリスト教コミュニティーも、だれが神意を正しく解釈してるのか、教義解釈ビーチフラッグバトルに突入し、言霊の強かったカトリックがしばらくチャンピオン。その後、カルバンやルターが出てきて、泥沼の宗教戦争へと突入していきます。正当性、業が深すぎる。

ご・ごちそうさまです。。
 大帝コンスタンティヌスとその息子コンスタンティウスの二代にわたって実施されてきた、キリスト教の振興を目的にした諸政策は、時代順に分ければ次の三段階になる。
 第一段階、公認することで、他の諸宗教と同等の地位にする。
 第二段階、キリスト教のみの優遇に、はっきりと舵を切る。
 第三段階、ローマ伝来の宗教に、他宗教排撃の目標を明確にしぼる。
 第一段階と、それに加えて第二段階の本質的な部分までは大帝コンスタンティヌスが、第二段階の残りと第三段階までを、息子のコンスタンティウス帝が継続したと考えてよいだろう。息子は多くの面で父ほどの才能の持主ではなかったが、キリスト教優遇策においては終始一貫していたのだった。そしてこの路線で、半世紀が過ぎていたのである。
 俗界の支配者がこうも首尾一貫していたのだから、聖界もそれを感謝し、こちらのほうも一致して俗界の支配者に協力してきた、となるべきところだが、実際はまったくそうではない。迫害を受けていた三世紀後半からすでに内部抗争はあったのだが、ローマ皇帝が支持にまわり迫害や弾圧も過去となった後は、かえってそれが激化したのである。
 ちょうどこの時期、隠遁の賢者として有名だったアントニウスが、シナイ半島の修道院で、百歳は越えると噂された長寿を終えつつあった。エジプト中部のヘラクレオポリス生れのこの人は、キリスト教会内での修道院主義の創始者である。天然の洞穴が容易に見つかる砂漠地帯は、外部との接触を完全に断っての祈りと瞑想の生活に適しているのか、エジプトやシリアに、「修道院主義」と呼ばれる信仰の一スタイルが生れたのであった。
 キリスト教会側の伝承を信ずるならば、この砂漠の隠者の生年は紀元二五〇年、没年は三五六年になる。ディオクレティアヌス帝によるキリスト教弾圧を経験し、コンスタンティヌス大帝によるキリスト教公認もその優遇路線も体験した一生になった。それでいながら、『聖アントニウスの生涯』と題されたこの人の言行録には、反キリスト教でも親キリスト教でも、ローマ皇帝への言及は一箇所しかない。紅海に近い地に修道院を建ててからは共鳴者たちの訪問が絶えなかったから、世間の事情に疎かったのではない。文面からも、帝国東方のキリスト教事情には相当に通じていたことがうかがわれる。
 それでいてこの砂漠の隠者の口が火を噴くのは、キリスト教を弾圧する皇帝に対してではなく、キリスト教会内部の、彼にしてみれば「異端」、を非難するときであった。
 この聖者の憎悪は、外の敵ではなく内の敵に向けられたのだ。異教徒よりは、キリスト教徒でいながらその教理の解釈ならばちがう人々に向けられたのである。あるときなどはわざわざ砂漠を離れてアレクサンドリアまで出向き、この大都市の司教区を牛耳っていたアリウス派の高僧たちを、面と向って糾弾している。お前たちは最後の異端者であり、アンチ・キリストの最初の先ぶれであると言って。そして、彼を慕って集まる信者たちに向っては、次のように言っている。アリウス派の聖職者たちとは付き合ってはならない、アリウス派の説く教理は十二使徒の説いたこととはまったく反対のことで、あれは悪魔の教理であり、実も種もない頭から生れた考えだ、と。他の箇所では平和で穏やかな信仰生活を説く人が、異端に話が及ぶや一変し、「口にするだけでも忌わしいアリウス派!」と罵倒する。アリウス派のほうも負けてはいずに、アタナシウス派(三位一体説ゆえにカトリック)の教会や修道院を襲って破壊する。教理の解釈のちがいが感情的な対立を産み、ついには憎悪に駆られての暴力行為に行きつくケースも珍しくはなくなっていたのである。ただし問題は、アリウス派もアタナシウス派も、自分たちの解釈が正しく相手側の解釈は誤っている、と信じて疑わなかったところにあった。
 日本語では「異端」と訳され、辞書には、正しいとされる宗教・思想・学説などから外れたもの、とあり、「異端視」は、異端として排斥的に扱うこと、とある。しかし、この日杢語訳も源をたどれば、ギリシア語とそれを受け継いだラテン語の「haeresis」にたどりつく。ところが、ギリシア人もローマ人もこの言葉を、「選択」の意味で使っていたのである。ギリシア・ローマ時代の「異端」は、「熟考した末に選択した説」であって、「正統な解釈から外れた説」ではなかったのだ。こうであれば選択の結果にすぎないのだから、排斥までは行きようがなかった。それが一神教が支配的になるにつれて、選択は姿を消し、正しいか誤りか、でしかなくなったのである。異端は、耳にするのも忌わしい、となってしまったのだ。「選択」ならば共生は可能だし、道理さえ認めれば相手に歩みよることも可能だ。しかし、誤りの意味の「異端」となっては、共生も歩み寄りも不可能になる。残るは、自分か排斥されない前に相手を排斥する、しかなくなってしまったのだった。(p77-80)




 前巻でも説明したとおりに、ローマ帝国後期の税制は、元首政時代のそれとは反対の考えに基づいている。
 税に対する考え方を税哲学と名づけるとすれば、元首政時代のローマ人の税哲学とは、「国家(レス・プブリカ)」は納められる税でやれる範囲のことをやり、「地方自治体(ムニチピア)」は地方自治体なりに、そして、この二つの「公(プブリクス)」でも足りない分野は「私(プリヴァートゥス)」がおぎなう、であったのだ。その好例が、帝国中に張りめぐらされたローマ街道網である。国が敷設したのは八万キロ、地方自治体敷設が十五万キロ、「私」が敷設して「公」にも開放しか道が合計で七万キロ、この総体がローマ街道網であったのだから。また、街道が機能しつづけるには常日頃のメンテナンスが不可欠だが、それも、国と地方自治体と「私」の三本立てで行われていた。初代皇帝アウグストゥスが私財を投じて北への幹線フラミニア街道の全線改造を実施して手本を示せば、一私人にすぎない元奴隷の新興成金もそれにならって、南への幹線アッピア街道のうちの、ほんの一区画にしろ修復に要する金額を寄附する、という具合であったのだ。
 この「res pubulica」と「municipia」と「privatus」の三本立てで行われていたからこそ、直接税は収入の10パーセント、関税が5パーセント、消費税としてもよい売上げ税は1パーセント、でもやっていけたのである。アウグストゥスの税哲学であった、税制度はシンプル、徴税は広く浅く、も現実化できたのであった。
 これが、歴史学者たちが「ローマ帝国後期」と名づける、ディオクレティアヌス帝の治世から一変する。税はいかなるものでも国に一本化され、徴税額もあらかじめ決められる。地方自治体は、中央が決めて通達してくる額を納税者に課し、それで集まる額を国に納入するだけの機関になったのだった。そればかりでなく、地方自治体の議会の議員たちには、納税総額が決められた額に達しない場合の、自腹を切っての穴埋めさえも義務づけられたのである。中央政府が決めたとおりの税を集められないのは、彼らの責任だとされたのだ。その結果、次の現象が生じた。
 元首政時代のローマ帝国では、属州出身の有能な人材にとっての憧れがローマの元老院議員になることであり、社会の低層の出身者の夢が地方議会の議員になることだと言われていた。すてにユリウス・カエサルが、軍団出身者と解放奴隷に地方自治体の公職への道を開いている。それが帝国も後期になって、成り手がいなくなってしまったのである。しかし、ディオクレティアヌス、そしてこの政策を継承したコンスタンティヌスの両帝によって、職業は世襲と決まり、親の職業を息子は拒否できなくなっている。これが、帝国後期独特の脱税の一手段を産み出した。
 つまり、本音は脱税にある、聖職者コースへの転出である。キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝と息子のコンスタンティウス帝の二人によって、キリスト教会に属する聖職者は免税と決まった。地方自治体の有力者層が、雪崩を打ってキリスト教化した真因は、これにあったのだ。
 しかも後期のローマ帝国は、兵士と行政官僚の数を倍増している。そのうえ教会関係者という、非課税の階層をつくってしまった。さらに、ライン河やドナウ河に近く蛮族の襲来に見舞われつづけている地方では、それによる生産性の低下からくる税の減収が重なる。古代の主産業は、何と言おうが農業であったのだから。
 この状態でもなお、皇帝は税制を変えない。その皇帝から税の減収の穴埋めを迫られた官僚が、特別税や付加税の名目をつくっては税を集めるようになったのも当然の帰結だった。
 こうして、後期のローマ帝国の税制はシンプルどころか複雑化する一方になり、「広く浅く」も「狭く厚く」に変わってしまったのである。このような税制下で、私人に、公益に積極的にかかわる気持が生れるであろうか。それまでに「私」が三本立ての一本になっていたのは、自分が成功できたのは社会がその機会を与えてくれたからであり、それに対して寄贈という形でお返しをするにすぎないという、現代的な言い方ならば「利益の社会還元」的な考え方、に基づいていたからである。これについては、凱旋将軍も皇帝も元奴隷もまったく変わらなかったのがローマだった。(p114-115)




 官僚機構は、放っておくだけで肥大化する。それは彼らが自己保存を最優先するからで、他の世界とはちがって官僚の世界では、自己の保存も自己の能力の向上で実現するのではなく、周辺に同類、言い換えれば”寄生虫”を増やしていくことで実現するのが彼らのやり方だ。ゆえに彼らに自己改革力を求めるくらい、期待はずれに終わることもない。官僚機構の改革は、官僚たちを「強制して服従させる力」を持った権力者にしかやれないことなのである。(p153)




 大帝コンスタンティヌスが、「ミラノ勅令」によってローマ帝国のキリスト教国化へ大きく舵を切った理由については、前巻の「コンスタンティヌスとキリスト教」の項で、すでに私は仮説を述べている。一私人の場合は「真の教えに目覚めた」で済むが、帝国統治の最高責任者ともなればそれなりの理由があったはずだからだ。また、なければ困る。個人的な理由で共同体の将来まで決められては、共同体の成員にとって迷惑である。だから、理由はあったのだ。
 おそらくコンスタンティヌスは、公益にとって良く私益にとっても良い方策として、ローマ帝国のキリスト教国化を決めたのではないかと想像する。
 公益は、政局の安定だ。紀元275年前後に生れたこの人は、私か『迷走する帝国』と名づけた3世紀後半のローマ帝国を身をもって知っている。自然死よりも殺される皇帝のほうが断じて多く、政局はそのたびに激変をくり返したのだった。ディオクレティアヌス帝もこの迷走状態から帝国を脱出させるための方策を探ったが、その彼を継いだコンスタンティヌス大帝も、政局の安定こそがローマ帝国の存続の鍵であることでは同感であったのだ。
 大帝コンスタンティヌスにとっての私益は、実力で帝位を獲得した自分とはちがって、彼の血を引く者であるという理由だけで帝位に登ることになる、三人の息子たちの皇帝位の安泰である。つまり、世襲権の正統性の獲得だ。それには、公式には主権者であるローマ市民(市民権をもつ兵士も入る)と元老院という、「人間」が権力を委託することで正統性を獲得する、従来のローマ皇帝像では不都合だった。権力を委託するのが「人間」であるかぎり、殺したりすることで権力を剥奪する権利も「人間」にあることになるからである。
 ところが、キリスト教ではこうは考えない。いまだキリスト教が微々たる勢力でしかなかった1世紀半ばに、キリスト教をユダヤ人の民族宗教から世界宗教への道に進ませる人になる聖パウロが、すでに次のように説いている。
 「各人は皆、上に立つ者に従わねばならない。なぜなら、われわれの信ずる教えでは、神以外には何であろうと他に権威を認めないが、それゆえに現実の世界に存在する諸々の権威も、神の御指示があったからこそ権威になっているのである。だからそれに従うことは、結局はこれら現世の諸権威の上に君臨する、至高の神に従うことになるのである」
 現実世界における、つまりは俗界における、統治ないし支配の権利を君主に与えるのが、「人間」ではなく「神」である、とする考え方の有効性に気づいたとは、驚嘆すべきコンスタンティヌスの政治感覚の冴えであった。権力の委託でも、また一転してその剥奪でも、それを決める権利は「可知」である人間にはなく、「不可知」である唯一神にあるとしたのだから。
 だがこれは、実際上ならば、何も意志表示をしない神が決めるということになる。となれば、その神の意を受ける資格をもつとされた誰かが、それを人間に伝達しなければならない。キリスト教では、神意は聖職者を通して伝えられることになっていた。それも、権威ある神意伝達のコースとなると、信者と日常的に接する司祭や孤独な環境で信仰を深める修道士よりも、教理を解釈し整理し統合する公会議に出席する権利をもつ、司教ということになる。つまり、世俗君主に統治の権利を与えるか否かの「神意」を人間に伝えるのは、キリスト教会の制度上では、誰よりも司教ということになるのだ。
 ならば、司教たちを”味方”にしさえすれば、「神意」も”味方”にできるということになる。そうとわかれば話は簡単だ。どうやれば司教たちを懐柔できるかに、問題は集約されるからであった。(p160-161)




 投機は古代にも存在したようで、英語の「スペキュレーンヨン」(speculation)ですらも、語源はラテン語の「スベクラティオ」(speculation)である。もともとは哲学用語で、考えをめぐらせることの意味である。人生の真理に考えをめぐらせれば哲学になり、金稼ぎの真理に考えをめぐらせると投機になるというわけだ。
 ギリシア哲学史のファースト・ランナーは、当時はイオニア地方と呼ばれていた小アジア西岸のミレトスに生れたターレスであったというのが定説だが、前7世紀から6世紀にかけて生きたこの哲学者は、愉快なエピソードを遺してくれたことでも現世的で地中海的である。
 あるとき、歩きながら思索にふけっていたターレスは、溝に落ちてしまった。それを、見ていた人々は笑った。哲学者なんて、実際に役に立つことは何一つできない人種なのだ、と。
 この批判への反証を、ターレスは決意する。何を計算してであったのかは忘れたが、何かを基にして計算した結果、その年はオリーヴの収穫が大幅に増えるという予測が可能だとわかった。それでターレスは、ミレトス周辺の搾油場を、一つ残らず借りたのだ。オリーヴの生産者がオリーヴ油を売りに出したいと思っても、ターレスの借りている搾油場でしぼってもらわないかぎりは市場に送れないという、独占体制を布いたのである。これで彼が、大もうけしたことは言うまでもなかった。
 哲学は、つぶしが効かない学問だと言われている。しかし哲学の真髄は、知識ではなくて思索である。思索とは、体操が筋肉の鍛錬であるのと同じで、頭脳の鍛錬である。言い換えれば、思いをめぐらせる作業に慣れるということだ。ターレスは、思索することに慣れ親しんでいれば、対象にするのが哲学であろうと投機であろうと、成功できることを実証したのである。つまり、哲学はつぶしが効く学問であることを、実証したのだった。
 とはいえやはり、断わっておくべきだろう。ターレスの主たる関心は哲学であって投機ではなかったのだから、投機への思索はその年だけで、翌年からは再び、思索の対象は哲学にもどったことは言っておかねばならない。このターレスが歴史上に遺ったのは、投機の達人としてではなく、ソクラテス、プラトン、アリストテレスで最高峰に達する、ギリシア哲学のファースト・ランナーとしてであったのだから。(p179-180)




 しかし、中世を想わせる現象は、これだけではなかったのである。

 勅令にも屈しない確信犯に対しては、他の人々は交渉をもってはならない、と決められたのだ。日本式に言えば「村八分」だが、中世になって猛威をふるうことになる「破門」が、地平線上に姿を現わしたのだった。
 もう一つは、「異端者」を探し出し告発し裁決を下すための、特別の機関が設立されたことである。「聖なる役所」と呼ばれた機関だが、これまた中世になって吹きまくることになる、異端裁判や魔女裁判の前兆以外の何ものでもなかった。中世とのちがいは、裁判官だけは聖職者ではなかったことだけである。
 そしてこれが、テオドシウス帝下の帝国東方でもっぱら行われた、「異端のキリスト教徒たち」への弾圧と迫害の様相であった。アリウス派がこの弾圧によって、完全に消滅したわけではない。だが、壊滅的な打撃を受けたことならば事実である。キリスト教会の中でアリウス派が、支配的な勢力になることはもはやなくなったのであった。(p269-270)




当時のキリスト教会は、裸体を人眼にさらすことも禁じていたのである。ところが、神像のほとんどは裸像だ。ギリシア人が考えローマ人が受け継いだ美の定義では、人間の美しい裸体以上の美の極致はなく、ゆえにこの最高の美は、神々にまず捧げられる、と考えられてきたのだった。ローマの皇帝にも裸像があるが、それはこの人の死後に作られた彫像で、死んだ後に神格化されたことによって神々同様に裸体で表現される資格を得た、という意味がこめられている。
 というわけでギリシア・ローマの彫像の多くは、全裸であろうが半裸で表わされようが、ヌードのオンパレードであったのだ。これをすべて排除しようというのだから、量的にも大変な作業であった。
 鼻をけずられるなどは、まだ穏やかな排除の方法だった。頭部が打ち落とされ、腕も打ち落とされ、四肢もバラバラになる。これらの作業さえもめんどうとなれば、崖の上から眼下の岩場に突き落としたり、橋の上から河に突き落としたりして、一挙に処理する方法がとられた。なにしろ、ローマ人は、どこにでも像を置くことが好きであったのだ。両側に円柱が立ちその問をアーチ型で渡した空間があれば、そこには必ず彫像を置いた。彫像が置かれていなければ、そこは人間の通り抜ける道としてであり、でなければ薄地の布のカーテンを引いて、涼しい西風を愉しむ空間であったのだ。
 そのうえローマ人には、過去を重んじ国家に功績あった人を記念する習慣があった。ローマの男にとって、公共の場所に自分の像が置かれることくらい、名誉なこともなかったのである。というわけでこの面での需要も多く、その結果として、首都にかぎらず帝国の主要都市ではどこでも、数多くの彫像があったのだ。これらはすべて、アンブロシウスの言う「正すべき過去」に属し、それゆえにキリスト教化したローマ帝国にとっては、排除し破壊し消去さるべき対象になったのである。このように考えるようになると、芸術的価値など立ち入る余地はなくなってくる。
 ローマはギリシアを軍事力で征服し、属州にした。だが、ギリシアの文化文明の素晴らしさは心から認め、自分から進んで、「ローマはギリシアを征服したが、文化ではギリシアに征服された」(Graecia capta ferumvictorem cepit)と言ったりなどしていたくらいである。ところが、紀元前5世紀から三世紀にかけての古典ギリシアの傑作は、当時のギリシアの版図と人口からして数自体が少ない。とうてい、ローマ人の需要を満たせる数ではなかったのである。
 それでローマ人は、フィディアスやプラクシテレスやリシッポスの作品はもちろんのこと、これらの天才ほどは有名ではない人の手になった古典ギリシアの傑作でも、可能なかぎり忠実に模造させることを考えたのだった。しかし、模作とは言っても、誰にでもできることではない。最上の模造作品が欲しければ、最上の芸術家に頼むしかないのである。そしてこの分野となれば、政治的にも経済的にもギリシアの勢いが衰えた紀元後になっても、やはりギリシア人の独壇場であったのだった。
 ローマ時代の模作が模作の域を越えるほどに素晴らしいのも、ローマ人のギリシア文化への愛と、得意とする人にはたとえその人が敗者であろうと任せるという、ローマ人に一貫した寛容の精神による。だが、これによって、古典ギリシアの傑作でも、その真作が作られた時期からすれば二千四、五百年が過ぎた現代に生きるわれわれでも、鑑賞することができるのだ。「ローマ時代の模作」というただし書きはついても、今なお世界中の美術館が展示するに値する、「模作」だからであった。
 しかし、ハドリアヌス帝の時代という、ローマ時代の模作の質が最も高かった時代から二百年しか過ぎていない四世紀末、同じローマ人が今度は、かつては大切にし大金を払って購入した傑作の数々を、破壊し河に投げこむように変わったのだ。寛容とは、辞書には、心が広くおおらかで、他の人の考えも受け容れる、とある。ローマ人が徳(ヴィルトゥス)の一つとさえ考えていた「寛容」(tolerantia)の精神も、芸術作品の傑作とともに、破壊され捨てられ河に投げこまれたのである。(p290-291)




民衆の人気を一身に集めていた戦車競走の騎手が、つまらないことで牢に投げこまれたのが発端だった。ファンたちは大挙して警察に押し寄せ、彼らの偶像の釈放を要求した。だが、それを拒否された後の群衆の怒りはエスカレートする一方で、テッサロニケの長官を始めとする多くの行政官が殺されるという事態に発展してしまったのである。
 報告を受けたテオドシウスは、これを民衆の暴動と断じ、軍を派遣しての実力行使を命じた。それで暴動は鎮圧されたが、多くの市民が犠牲になった。
 アンブロシウスは、このときもまた、厳重な抗議文を皇帝に送りつける。それには、軍による制圧が限度を越えて残酷であったために罪も無い多くの人々までが殺されたとして、それを命じた皇帝は責任を負うべきである、と記されていた。しかも、それにつづけて、皇帝は、犯した罪を償うために、公式に蹟罪の意志を示す必要があり、それまでは神の祭壇に近づくことは許されない、と書かれてあった。つまり、公式に罪を蹟わないかぎり、神の家である教会に入ることを禁ずる、というわけだ。
 皇帝テオドシウスは、それでも八ヵ月間は抵抗した。しかし、ついに八ヵ月後、和解の申し出が皇帝のほうから発せられたのである。
 公式に罪を認め許しを乞うことを、キリスト教会では「公式悔悛」と言うが、それを行うことによって初めて許しが得られ、聖体拝領を再び受けられることになる。普通の信者だと、そこに至るまでの期間も長く、その間に成さねばならない悔悛を示す行為の種類も多い。つまり、そうは容易には蹟罪も成らないのだが、皇帝となると、この辺りは相当に簡略化してくれたようである。
 ローマ帝国皇帝テオドシウスは、皇位を示すあらゆるもの、衣服に刺繍された皇章も、頭上にいただく帝冠も、宝石をちりばめた長剣も、すべてを取り去った質素な身なりで、罪の許しを乞う姿で教会の前に立った。しばらく待たされた後で、ようやく眼の前の扉が左右に開かれ、司教が姿を現わす。司教のほうは、宝石をちりばめた司教冠を頭上にし、一面に金糸銀糸の縫いとりがほどこされた豪華な司教のマントに身を包んだ第一級の礼装姿。そして司教は、ひざまずいた罪人に向って、犯した罪を悔いる気持は確かか、と問う。罪人は、謙虚な口調で、悔悛の意志を告白する。これらが終了して初めて、罪人は再び、神の家に足を踏み入れることを許される。そして、祭壇の前に進み、司教から薄くて小さいパンを、つまり聖体を拝受するのだった。
 ローマ帝国皇帝とミラノ司教の間に展開したこのドラマは、教会の外でも内でも、大勢の人々が見守る前でくり広げられたのである。これほどに、現世の権力者に対する神の力を誇示したショーもなかった。
 まるで、中世を象徴することの一つと言われる、「カノッサの屈辱」を想起させる光景だ。西暦1077年、イタリア中部のカノッサで、法王グレゴリウス七世の許しを乞わねばならなくなった神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ四世が、三日三晩雪の中に立ちつくしだのが「カノッサの屈辱」の名で知られる史実だが、その前奏曲は、七百年も前に始まっていたのであった。(p300-301)
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