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空き家はコミュニティー崩壊の予兆、ローマより
この巻から何を学べるだろう。

それは、

治安の悪化は経済活動を停滞させるだけでなく、
共同体(コミュニティ)も劣化させる


ということ。

コミュニティが劣化すれば、コミュニティを維持することへのインセンティブはますます減退し、環境は荒れ、さらなる治安の悪化を招く。負のスパイラル。

治安悪化の要素は様々。

日本も対策をしないと、ローマの轍を踏むことになる。
とりあえず、空き家、どうにかしよう。
しかし、「パクス・ロマーナ」とは、ローマによって確立された平和という意味だが、その「パクス・ロマーナ」体制がローマに征服された属州民からも支持されていたのは、外敵からの防衛と同時に、国内の治安維持にも成功していたからである。
 その治世の大半を使って帝国全域を、とくに辺境地帯をくまなく視察し巡行したことによってハドリアヌス帝は有名だが、これをハドリアヌスは、軍団も従えずに実行している。皇帝である以上は警備隊ぐらいは随行していたにちがいないが、巡行先がその対応に苦労するほどの数の兵士ではなかった。この一事でも明らかなように、ハドリアヌスもその一人だった五賢帝の時代までは、「パクス・ロマーナ」は完璧に機能していたのである。それにローマの統治者たちは、伝統的に治安を、防衛同様に重要視してきた。治安が維持できなくなっても、地位の高い人や裕福な人には身を守る手段がある。私警団を組織したりボディガードを雇ったりできる、資力をもっているからだ。一般の人々にはそれがない。ゆえにこのような状態を放置すれば、何よりもまず、生産に従事する人が減少する。生産しても奪われるのがわかっていて、誰が苦労するだろう。また、旅路の不安は、人と物の交流の障害になった。この状態の行きつく先は経済活動の低下であり、経済活動の低下は失業者の増大につながる。だからこそ治安も防衛同様に、「公」が果すべき責務になるのだった。ハドリアヌス帝の生きた二世紀とディオクレティアヌスの統治する三世紀末のちがいは、以前ならば盗賊退治に皇帝が乗り出す必要などはまったくなかったのに、今はあるということであった。皇帝マクシミアヌスが、蛮族をライン河の彼方に追い払った後で取り組んだ課題が盗賊退治であっても、当時のローマ人ならば誰も不思議に思わなくなっていたのである。(p25)



  帝国改造

 アウグストゥスが初代の皇帝になることではじまったローマの帝政は、歴史上では「元首政」と呼ばれ、ディオクレティアヌス以降の「絶対君主政」と区別される。日本では「元首」の訳語で定着してしまったが、原語であるラテン語の「プリンチェプス」(Princeps)とは、「ローマ市民中の第一人者」であり、国家ローマの主権者の意味はない。「S.P.Q.R」とはローマを表わす略語だが、それは「ローマ元老院並びにローマ市民」であり、この両者こそが国家ローマの主権者なのである。ローマは都市国家としてスタートしたので、この種の主権在民思想のほうが当時の人々にとって自然であったのだろう。建国以来ローマは、王政から共和政へ、そして帝政へと統治上のシステムは移行したが、王(レクス)も執政官(コンスル)も皇帝(プリンチェプス)も、現代ならば国会に似た存在の「ローマ元老院」(Senatus Romanus)と、現代の国民にあたる「ローマ市民権所有者」(Civis Romanus)の二大主権者から、統治を委任された存在であることでは変わりはなかった。
 たしかに、共和政時代の執政官と帝政下での皇帝は、有権者から権力を委託されたということならば同じでも、他の多くの面では同じではない。執政官は選挙で選ばれたが、皇帝は前任者の指名で決まる。任期も、前者は一年、後者は終身、という大きなちがいはあった。だがこれも、領国は広がる一方で「ローマ市民」もその頷国内に進出する一方という時代の変化を前にしての、適応策であったと私は考えている。共和政末期には五百万人に達しようとしていたローマ市民権所有者、つまり有権者を、どうやれば年に一度の首都での選挙に集められるであろうか。もしも以前と同じに首都ローマで開かれる市民集会での選出をつづけていたとしたら、それは有権者の総意の反映ではまったくなく、首都に住む市民の、それもせいぜいが三万人程度の市民の考えを映し出すにすぎなかったであろう。代議員制度がイギリスで始まるのは、一千九百年も後のことなのだ。直接民主政が機能するか否かは、有権者の数とその人々が住む地の広さに影響されないではすまないのである。
「市民中の第一人者 プリンチェプス」がなぜ「皇帝 インペラトール」と同人物なのか、だが、ローマ全軍の最高司令官でもあったからである。それゆえに「皇帝(imperator)」は軍事関係者間の呼び名であって、戦闘の勝利後に兵士が自分たちの司令官を誉め讃えて歓声をあげるときの呼称が語源になっている。その「勝将」が帝政移行後に、政治上の最高責任者でもある「皇帝」に転化したのだった。
 しかし、「市民中の第一人者 プリンチェプス」と呼ぼうが「インペラトール」と呼ぼうが「アウグストゥス」と呼ぼうが、訳語は「皇帝」で統一したほうが適切な時代、つまり紀元一世紀と二世紀のローマ帝国でも、皇帝が元老院と市民から統治を委任された存在であることには変わりはなかった。            ’
 皇帝になるには何よりもまず、元老院の承認と市民たちの同意が必要だった。新皇帝はフォロ・ロマーノにある元老院で就任の演説をし、その後で元老院の議場の近くにあるロストラと通称された演壇の上に立ち、市民たちに就任の挨拶をする。これを無事に終えてはじめて、フォロ・ロマーノからは坂道一つで通じているカピトリーノの丘に登り、神殿に参って神々の援助を乞う。これで、就任の行事はすべて終わる。その間新皇帝が身につけているのは、他の元老院議員と同じの紅のふちどりをした白のトーガ。「市民中の第一人者」を、アッピールするためであったことはもちろんだ。
 だがここで、中世以降の皇帝や王の即位には附きものの戴冠式が、ローマ帝国にはなかったことに注目してほしい。なぜなら、この事実くらい、ローマの皇帝の特質を示していることもないからである。

 戴冠式が存在しないのは、帝冠がないことと、皇帝の頭上に冠をかぶせる存在がないからである。ローマ皇帝も頭上に何かをいただいた姿で彫像にも作られ通貨にも彫られているが、それも、軍団では戦場で味方を救った兵士に贈られるのが常であった、「市民冠」と呼ばれた樫の葉を連ねたものが主流である。勝戦を記念する場合でも、オリンピア競技の勝利者に贈られたのと同じ、月桂樹の葉を連ねたものだった。それが緑色の葉ではなく金や銀でつくられていても、意味するところならば変わりはない。造りが花冠と同じなので、首の後ろには、葉を連ねるのが役割のリボンの結び目が見える。太陽の光線でもあるかのように黄金製の線が並び立つ冠をかぶるときがあったが、これはごくまれな例になる。「ディアデマ」と呼ばれる、われわれが容易に頭に浮べる形の宝石をちりばめた豪華な帝冠は、建前にしろ皇帝とは「市民中の第一人者」であった時代には、つまり「元首政」時代には、存在しなかったのがローマ帝国であった。
 皇帝の頭上に冠をかぶせる人もいなかったのは、ローマでは、誰が皇帝になるかということでも「人間」が決め人間が承認するからであって、「神」ではなかったからである。ローマの神々は努力する人間を助けはげます神ではあったが、人間に対し、何であろうと「やれ」と命令する神ではなかった。誰を皇帝にせよ、と、人間世界の人事に口を出す神ではなく、人間たちが皇帝にした人に、なった以上はその責務を果すために全力をつくせば、われわれ神々も支援は惜しまないであろう、とでも言う感じの存在であったのだ。
 主権者が元老院とローマ市民権所有者であるローマ帝国で、神々もこのような存在、しかも神々に奉仕するのが仕事の神官も、それが専業の専門職ではなく、市民間でもちまわりや選挙で決める。その神官職の最高位は「最高神祇官(ポンテイフクス・マクシムス)」だが、これもユリウス・カエサル以来、皇帝の兼務になってつづいている。誰かが帝冠を皇帝の頭上にかぶせるとすれば、それは当の皇帝しかいなかったのである。という事情かどうかは知らないが、これがローマの皇帝の即位の時の実態であった。ローマ帝国と、その後に人類史上に現われる諸帝国とのちがいは数多い。だが、ローマ帝国には戴冠式が存在しなかったという事実も、そのちがいの一つなのである。だからこそ、次のようなエピソードも存在しえたのであろう。
 皇帝ハドリアヌスが祭儀を行うために神殿に向っていた途中で、一人の女に呼びとめられた。女は皇帝に何かの陳情をしようと、途中で待ちかまえていたのである。だが、それにハドリアヌスは、「今は時間がない」と答えただけで通り過ぎようとした。その背に向って女は叫んだ。「ならばあなたには、統治する権利はない!」。振返った皇帝は、戻ってきて女の話を聴いたのである。
 このハドリアヌスから百五十年余りが過ぎた四世紀、ローマ帝国の皇帝像は、ディオクレティアヌスによって一変する。戴冠式はないままでつづくが、それまではオリエントの専制君主のものと思われてローマでは軽蔑の眼で見られていた、「ディアデマ」と呼ばれる宝石をちりばめた冠が皇帝の頭上に登場しはじめる。これを頭上にしたのはディオクレティアヌスが最初であったといわれている。もちろん、これまでのローマ皇帝たちのような、うなじのところでリボンで結ぶ式の冠を捨てたわけではない。彫像でも通貨でも、そのほとんどはこの式の冠をつけている。ゆえにこの時期以降の変化とは、以前ならば金か銀で樫や月桂樹の葉を型取る程度であったのが、それに光り輝く宝石をいくつもちりばめることによって、段ちがいに豪華に造るようになったことだった。

 ディオクレティアヌスには、「市民中の第一人者(プリンチェプス)」でいる気がなかったからである。いや、そうではないほうが、政治の安定に寄与すると確信していたのかもしれない。
 この人がローマ軍内で青年期を送った時代は、軍人皇帝の時代といわれて軍団出身の皇帝が輩出した時代だった。その中でもとくにアウレリアヌスとプロブスの二皇帝は、積極戦法を駆使することによって、帝国を崩壊から救い出した功労者である。ミリタリーの支持のみでなく、シビリアンの支持も高かった皇帝だった。それでいながらアウレリアヌスは五年、プロブスは六年の治世に恵まれたにすぎなく、二人とも実につまらない理由で配下の兵士たちに殺されている。配下の者たちの陰謀などまったく心配する必要のなかった二人なのに、実際はこれら身近な人々によって息の根を止められたのだった。しかも、その犯人たちが殺害後に心から後悔したことでも同じだ。ディオクレティアヌスはこの不祥事を、三十歳から三十七歳の間に二度も経験したのである。三十九歳で帝位に就いた彼が、この一事を忘れなかったとしても無理はなかった。
 こうしてローマ帝国は、「元首政」から「絶対君主政」への第一歩を踏み出す。皇帝像も、「市民中の第一人者」から「市民とはかけ離れたところにあって支配する者」に変わったのである。だがそれは、ディオクレティアヌスが、自分が殺されることを怖れたがゆえの対策ではなかった。三世紀後半を生きたこの人は、帝国の維持には何よりも、統治の安定が不可欠であることを理解したのである。そして、ローマ帝国での統治の安定とは、皇帝の地位の安定であったのだ。ディオクレティアヌスはそれを、市民の中の皇帝ではなく、市民から離れた皇帝にすることで実現しようと考える。兵士でも、皇帝も自分も同じ市民と思うのではなく、自分とはまったくちがう高みにある人、と考えるようにするためだ。距離を置くことが、この路線の基本方針になった理由はここにあった。
 ただし、人間嫌いだったティベリウス帝や老齢期のハドリアヌスのように、水平線上に離れるのではない。垂直的に離れるのだから、一般の人々にとっての皇帝は仰ぎ見る存在になる。「元首政」時代のティペリウス帝にとっては、私邸の召使が使う言葉でしかなかった「御主人様 ドミヌス」(dominus)が、ディオクレティアヌス時代からは、市民が皇帝に対して使う言葉になる。「市民中の第一人者 プリンチェプス」(princeps)は「支配者 ドミヌス」(dominus)に変わったが、「市民 チヴィス」(divis)も「臣下 セルヴス」(servus)に変わったのであった。(p59-63)




  税金大国

 初代皇帝アウグストゥスが打ち立て、その後につづいた歴代の皇帝がとにもかくにも三百年の間継承してきた「元首政」時代の税哲学と、ディオクレティアヌスが断行し、四世紀以降のローマ帝国を律していくことになる帝国後期の税哲学を、一言でまとめるとすれば次のようになる。
 アウグストゥス税制――先に納税者あり。国家は、税収が許す範囲のことしか手がけない。
 ディオクレティアヌス税制――先に国家あり。その国家に必要な経費が、税として納税者に課される。
 まさに、百八十度の転換と言いたいくらいの変革であったのだ。

 第佐で詳述済みなのだが、アウグストゥス創設の「元首政」時代の税制をもう一度振り返ってみれば、次のように要約できるかと思う。

 税金を喜んで払う人は、古今東西一人もいない。それどころか、重税に圧迫されようものなら、それによる不満は蜂起や反乱に結びつく危険は大きい。
 とはいえ税金は必要だ。個人ではできない諸々のこと、防衛、治安、インフラ整備、社会福祉等は、住民共同体でもある国家がやらねばならず、それを怠ると、個人でやれる資力を持つ人と持だない人に分離し、社会不安の源になりやすい。
 となると、納税者が喜びはしなくても納得はする税の限度はどの辺りかが重要な問題になるが、いまだ共和政下でも地中海を「内海 マーレ・インテルヌム」と呼べる覇権国家への道を邁進中たったローマの前には、参考例が三つあった。

 オリエントの君主国――税率は一定していないために重いのか軽いのか判然としないが、使役や戦争に駆り出されることによる負担が常にプラスされていたという税制。
 カルタゴ――最高は二五パーセントにもなったという高い税率だが、どうやらカルタゴ本国は支配下にあった全地方に、農業技術の指導という形での振興策はとっていたらしい。
 シラクサ――僣主が支配する専制下にありながら、この地を訪れたプラトンが強く興味をもったほどに社会が安定していたが、この国の税率はI〇パーセントでつづいていた。
ローマ人はギリシア人とちかって、原理原則主義者ではなかった。ユリウス・カエサルも言うように、良しと思えば敵のものでも平然と導入することで、自分たちの力の増強を実現してきたのである。覇権国家になり帝政に移行し、税制もそれに応じて新しくつくり変える必要に迫られたときも、この姿勢(スタイル)は変えていない。ゆえにこれら三つの参考例も、場合によっては教師になり、別の場合には反面教師になったのだろう。ちなみに、新税制を創設するアウグストゥスは、ユリウス・カエサルが後継者に指名した男だった。
 この初代皇帝作のローマ帝国の税制は、実に簡単で明瞭な基本方針に立っていた。
 税率は低く押さえ、しかしなるべく多くの人が払う制度にし、しかもその税率は変動なしで継続する。
 現代の税の専門家が聴いたら笑ってしまうかもしれないが、このシロウト的ではあっても常識的な考え方からスタートしたローマ帝国の税制を、後世の歴史家は次のように評するのである。
 「元首政時代のローマ帝国は、税金は広く浅く取るもの、という考えを現実にした」
 アウグストゥス創作のローマ帝国の税制の細目に移る前に、古代という時代がどういう時代であったかを、もう一度思い起こす必要があるだろう。
 古代とは、勝者と敗者が厳然と分れていた社会であり、税金を払うのは敗者と決まっていた時代であった。また、ローマも都市国家から始まっている以上は、主役は市民である。その市民の権利は国政への参与であり、義務は、武器を手に自分の属す共同体を防衛することにおった。だからこそ兵役が、「血の税」とも呼ばれていたのだ。それゆえ、敗者にならないかぎりは古代人は直接税を払う必要はなかったので、古代は本質的に間接税社会であったのだった。この社会で「広く浅く」を実現するには、勝者であるローマ人にも払わせるシステムにする必要がある。それを成し遂げたのだから、アウグストゥス作の税制は、古代ではまさに画期的であったのだ。私には、「パクス・ロマーナ」の樹立とその長期にわたる維持の功績は、圧倒的に強大で機能性の高かった防衛力に劣らないくらいの重要さで、税制にもよっていたと確信している。税制とは単なる税金の話ではなく、政治の良し悪しを決める計器でもあるのだから。
 それでアウグストゥスが編成したローマ帝国の税金の種類だが、税制の基本方針も簡単だったが、税の種類のほうも簡単であったのだ。第佐でこれについて書きながら、税務署員が少なくて済んだろう、と痛感したものである。(p80-82)




 皇帝ディオクレティアヌスにはもう一つ、解決の先送りはもはや許されないところにまできていた難問があった。それは、農民の離農化で耕作地は荒地に変わり、商店や工場からは若者の姿が消えるという現状の打開策である。放置しておいては、自営農民や商人や
手工業者という、ローマ社会の中堅層の疲弊は進む一方であったからだ。インフレ対策に強硬策で臨んだディオクレティアヌスは、こ
こでも強硬策をとるのである。
 ほとんどすべての職業に、世襲制が布かれた。それが何であろうが、父親の職業は息子が継ぐと決められたのである。そして、父が
勤務していた地に、息子も住みつづける、とも。
 農作業に従事しながら国境を警備する兵士でもあるのが普通の形になっていた「防衛線」勤務の兵士の息子は、父親と同じことしか
できなくなった。「元首政」時代の兵士の満期除隊時の退職金は現金かそれに相応する土地であったのだが、ディオクレティアヌス時
代になっての退職金は、農作業の労働力の妻や子に課される人頭税の免除という、何ともケチな話に変わっていたのである。ローマ帝国もケチになったものだが、これでは兵士の息子でも父の後を継ぐ気持が薄れる。「防衛線」の過疎化も心配しなければならなくなった現状では、兵士もまた、人間を職業と土地に縛りつける政策の例外にすることは許されなかったのだ。もちろん、各皇帝に直属している軍の兵士とて、父の職業は息子が継ぐという点では同様である。こうして、四百年の間つづいてきたローマ軍の志願制は、事実上の徴兵制に変わったのであった。
商人の息子も手工業者の息子も、同じことだ。皇帝はこの人々が「コレジウム」と呼ばれる職能別組合を結成することを奨励したが、目的にかかげられた組合員の相互扶助は建前にすぎず、本音は世襲制の定着にあったのだ。中世の社会機構の支柱になる、ギルド制度の始まりでもあった。
 「元首政」時代のローマ帝国は、皇帝、元老院議員、騎士階級(官僚や経済人)、平民、解放奴隷、奴隷と分れた、階級社会であった。それでいて、職業選択の自由と居住地移動の自由は、完全に保証されていたのである。だからこそ、階級間の流動性が機能していたのだ。それによって、成熟した社会に起こりがちな動脈硬化現象も阻止されてきたのだし、何よりもまず、社会にとっての「新しい血」としてもよい、新人材発掘とその活用に効果あったのだった。
 それがまず、ミリタリーとシビリアンのキャリアの完全分離で崩れた。そしてさらに、職業選択の自由が失われ、居住地を変える自由までが失われたのである。研究者の一人は、現代ならば社会主義国家だ、とさえ言っている。(p100-101)
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