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カール・マルクスは偉大な詩人だった
この本、誰得だろうと思考をしばらく飛ばしてみたが、見事に返ってこなかった。。

「超AI時代」と不安感を煽るキャッチーなタイトル。
そして、
 外見には気をつけろ!
 筋トレは欠かすな!
 会社を使い倒せ!
など、自己啓発セミナーの香りする断言調の文句や未来空想。

こんな姿勢が大切だ
こんなやりかたが必要だ
こうしないと生き残れない

など、著者の助言をすべて真に受けたら、つまるところ、鉄腕アトムになれってことね、と頭の悪いぼくは早合点してしまった。

なんとも詩文的な文章なんだけど、後につづくロジックの建て付けがしっかりしていないので、マルクスのような、なるほど感はない。「ヨーロッパに幽霊が出るーー共産主義という幽霊である」で始める共産党宣言のように、詩文的文章の詳細である、社会構造にたいする見立て、解決策を抱き合わせて提示してほしかった。

とはいえ、エピローグ(後述引用部分)は一見の価値あり。

「ドキドキする」というのと、「報酬がある」というのを組み合わせると、人は「テンションが上がる」ことに注目する著者。お金2.0の佐藤さんが提唱していた発展するコミュニティの法則とかぶる。思想のトレンドを行く人たちの共通感覚なんだろうね
 今、スマートフォンは、インターネット上に帝国を完成させ、私たちの上にのしかかる新たな帝国支配は、アプリストアの売り上げの3割を税収前に奪い、リンゴの形をした帝国と緑色のロボットによって守られた帝国へと差し出す。この割合は初期の東インド会社による英国のそれを思わせる上納金だ。先の大統領選挙でアメリカは赤と青に選挙結果が二分された。私たちがアメリカ大統領選で見た二色のアメリカは、有価証券とITの帝国支配によってもたらされる「青いアメリカ(ヒラリー支持)」と、ローカルな「赤いアメリカ(トランプ支持)」の対比でもあった』

『では、この世界のどこにベーシックインカムで暮らせるローカルが存在するか。それは青いアメリカにある。人間が人間にしかできないことをすることで余暇を潰すことで生きていくような世界は、そしてそれを可能にするほどの富が集まる場所は、そこにしかないだろう。他のローカルでは機械の歯車として人間も働き続けるのだ。富を生み出すために、インターネットの端末に混ざって生きていかなければならない。
 その上で、持たざるローカルに所属する人々が2040年代の世界をぼんやり想像しながら過ごす余裕があるだろうか?少なくとも日本ローカルに暮らす私たちにはないはずだ。機械との親和性を高めコストとして排除されないようにうまく働くか、機械を使いこなした上で他の人間から職を奪うしかないのだ。この構図は機械対人間ではなく、「人間」と「機械親和性の高い人間」との戦いに他ならないのだから。チェスでも、馬車対自動車でも、科学医療と呪い医療でも、そういった対立構図は起こる。それに対して人は順応してきただけなのだ(p22-23)



テクノロジーの変化が私たちに求めようとしている事実は、おそらく次の4つだ。

1. 身体はタンパク質コードによって記述された有機的機械である。
2. 心はやがて人工知能によって実証され解体され記述され得る関数である。
3. 五感を再構成することで個人やコミュニティによって違った現実を定義しうる。
4. 計算機発展以降、ヒトは世界を観察し解釈を与えうる唯一知性ではない。(p172)




 貧者のヴァーチャルリアリティ

 人間中心主義からの脱却をデカルト以後の最大の転換と言ったが、デカルト以前の私たちの世界認識を捉え直すため、宗教のことを思い出してみよう。原始宗教や宗教社会学については先に挙げたマックス・ウェーバーの貢献が大きく、著作も多い。原始宗教の定義については諸説あるが、「まじない(儀式・儀礼)」を共通幻想生成機として持つことが大きな特徴である。
 私たちは洞穴や狩猟を行う小さな社会性と生と死が織りなす中で、原始宗教を生んだ。その後の農耕の発明はより大きな協調動作や暦の制定を促した。それにより大規模集落に統治機構や規範が必要になった。その中で私たちは占術やシャーマニズムを発展させてきた。
 社会規模と宗教の教義の緻密さには密接な関係がある。キリスト教や仏教が一つのプラットフォームとして機能したのは、カール・マルクスの定義した上部構造、すなわち下部構造=労働の裏返しとして成立したのではないか。つまり、上部構造と下部構造の関係だけではなく、下部構造の要求する仕様としての宗教、人の精神補完装置としての意味が大きいのではないか。それは「貧者にとってのヴァーチャルリアリティ」として語りうるものだったのではないかと最近、僕はずっと考えている。ジャガイモを「貧者のパン」と呼んだ論があったが、現実を自由に振る舞うことのできない人々にとっての現実が有史以来ずっと存在したのだ。
 ここでいう貧者のヴァーチャルリアリティとは、自らが主体的に決定できない構造的弱者(例えば、為政者に対する農民)が、希望を持って生きていくための精神的支柱のことである。具体的には、例えば念仏を唱えることで極楽浄土に転生することや教会で聖書を読みあわせることによって神の国を想像することなどが、日々のつらい生活に措抗するためのソフトウェアとして人々にインストールされていったのではないだろうか。
 それらは、極めてヴァーチャルリアリティに似ている。リアリティを生きるために、実体の確認が不可能な死後の世界を提示し、それを想像の中で実体に近づけていく、ヴァーチャルリアリティを現実に対するフィルタとして作り出す方法だ。勧善懲悪な審判がやがてやってくるという色眼鏡を通して世界を見させることに成功すれば、それは為政者にとって都合のいい規範を作り出すことができる。
 映像の社会の中では、マスコミュニケーション上のコンテンツで語られるドラマや映画みたいなファンタジーもヴァーチャルリアリティとして振る舞っている。つまり自分を現実から投射可能な世界だ。その意味ではディズニーランドも結婚式もヴァーチャルリアリティと言えるのではないだろうか。イメージを共有し作り出すための装置がイメージ内で完結するとき、それはヴァーチャルリアリティであり、その消費活動がもし何らかのプラットフォームと収益構造を生み出すならば、それは貧者のヴァーチャルリアリティになりうる。(p176-179)
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