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ローマ人の物語XII 迷走する帝国
坂を転がり始める3世紀のローマ。「ローマ」という運命共同体への個々のインセンティブが下がってきたのはなぜか。数ある中で因子の中でも特に、ローマ市民権の既得権化が大きな影響を与えたのでは、と七生たんは分析する。なるほどな、の一言。
  「既得権」と「取得権」
 もともとの始まりが都市国家であったことでは、ローマもまたギリシアのアテネと同類である。宗教も風俗も文化も、後世が「ギリシア・ローマ時代」と呼ぶことが示すように、先にアテネ、次いでローマという感じで、両民族は連続した関係にあった。だが、市民権に対する考え方ならば、両極端としてよいほどにちがっていたのである。ちなみに市民権とは、現代の国籍と考えてよい。その「市民権」だが、両親ともにアテネ市民の間に生れた子でなければ、アテネ市民とは認められなかった。母親が同じギリシア民族でもアテネ以外の都市国家の生れであれば、それだけでアテネ市民への道は閉ざされていたのだ。ましてや両親ともがギリシア北部の生れであったり、イタリア南部に数多く存在したギリシア人建設による植民都市の出身者であったりすると、その大自身がいかにアテネのためにつくそうと、彼の身分は外国人のままで留め置かれた。ソクラテスもプラトンもアテネ市民だったが、アリストテレスは、リュケイオンの名で後世にまで知られる高等学校を創設したりしてアテネの文化水準の向上に努めていながら、都市国家アテネは、この大哲学者に自国の市民権を贈ることさえもしていない。いや、アテネ人の頭には、他国人に自国の市民権を分与するという考えそのものからして、入る余地がなかったのだろう。それは、アテネ人の考える「市民権」が、「血」のつながりを基盤にしていたからであった。
 また、アテネの社会のあり方が、この閉鎖傾向をさらに助長した。都市国家アテネは、王政−貴族政−民主政と移行し、別名「ペリクレス時代」と呼ばれた民主政時代に、最も繁栄を謳歌した国である。民主主義は、その時代のアテネ人の創り出した政体であることは、二千五百年後の現代でも常識になっている。
 しかし、民主政体とは、有権者である市民全員の地位が平等でなければ成立しえない。有権者各自の能力が平等というよりも、もつ権力が平等でなければ成り立たないということだ。一票は、誰がもとうと同じ一票であることが、基本理念であったのだから。
 全員が平等でなければならない社会では、異分子、即ち他国人に対して、閉鎖的になるのは当然の帰結である。昨日まで他所者であった人を、今日からはわが家の言貝だとして同等の発言権を与えて仲間に加えた場合を考えてほしい。昨日までの長い歳月を「わが家の一員」でがんばってきた側から、反撥が起こるほうが自然ではないだろうか。全員平等とは、異分子導入にとっては最もやっかいな障害になるのである。このアテネでは、宿敵ペルシアを壊滅してくれたアレクサンダー大王でさえも、アテネの市民権を贈られることだけはなかったにちがいない。

 一方、ローマでは、テヴェレ河のほとりに建国した当初からすでに、「市民権」に対する考え方がアテネ人とはまったくちがっていた。
 建国から間もない頃のローマは周辺の部族と戦争ばかりしていたのだが、勝っても敗者を奴隷化していない。スパルタのように、半分奴隷の身分の農奴にしてこき使うのでもなかった。ローマの勝利を認めた講和が締結された後は、敗者側の有力者も一般市民もローマに移住させ、ローマ市民権を与え、有力者にはローマ元老院の議席まで与えたのである。これは人口増加策でもあったので、国家の形を成すようになった共和政への移行時からは首都への強制移住はなくなったが、この敗者同化の政策は以後もっづいた。もしも敗者が敗者のままで留め置かれたのであったら、後のユリウス・カエサルもアウグストゥスもクラウディウス帝も存在しなかったのである。家系をたどればこの人々の全員が、がっての敗者の出になるからだった。いや、この人々にかぎらず、その後のローマの指導層を形成した人々の大部分が、祖先に遡れば敗者、ということになった。だが、これはあまりにも当り前のことであって、ローマ人の間ではこのことは問題視されもしなかったのだから面白い。

 ローマ人は「市民権」を、アテネ人のように「血」が同じであることを基盤にしたものではなく、「志」とか「意欲」でつながるものと考えていたからだろう。それゆえ、敗者でもローマという「共同体」を守り立てていくうえで協力を惜しまない人ならば、市民権を与えることで自分だちと同格になる資格は、充分にあると考えていたのである。
 ユリウス・カエサルは、彼が総指揮をとったガリア戦役に協力してくれたのを理由に、北部イタリアに住む人の全員と、南フランスとスペインに住む人のうちの有力者にローマ市民権を与えた。しかも、敗者になったガリアの有力者階級もローマ市民にしただけでなく、強力な部族の長には、元老院の議席まで提供している。敗者にもローマ市民権を与えたのは、有力者たちにかぎらなかった。終身独裁官になって帝国全域をリードできる立場になってからは、教師と医師には、教育と医療に従事することを条件にしたうえで、人種も民族も肌の色も関係なくローマ市民権を与えている。アリストテレスがローマに生きていたならば、まっ先にローマ市民になっていただろう。
 初代皇帝アウグストゥスは、このカエサルの開放路線を忠実に踏襲したうえにさらに、より大規模なローマ市民権供与のシステムまで確立した。属州出身者でも補助兵としてローマ軍の許で兵役に従事すれば、二十五年後にくる満期除隊時には、たとえ一兵卒で終始した者でもローマ市民権を与えると決めたのである。この場合のローマ市民権は、教師や医師とはちがって世襲の権利である。新たにローマ市民となった旧属州民の息子はもはや立派にローマ市民であり、ローマ人の血は一滴もなくても、本国イタリア生れの「ローマ市民」とまったく同等の権利を享受し、義務を負う身になったということであった。
 ここではほんの数例を引用したにすぎないが、「市民権」に対するローマ人の開放的な考え方は、ヒューマンな感情から生れた思いつきではまったくない。敗者同化は、ローマ人にとっては、帝国運営上の「政略」であった。だからこそ、帝国創設時にカエサルとアウグストゥスの二人が考え実施したこの開放路線が、その後の皇帝たちにも引き継がれていったのである。とはいえ、広大な領域を統治するようになったローマ帝国に適合するシステムに改めたのはこの二人だが、もとをたどればローマの建国当初からすでに実行されていた政策で、言ってみれば開放路線は、ローマ人にとってはDNAのような存在であったからこそ、こ貝した政略になれたのだろう。人間は、自らの本質に基づいた行為をしたとき、成功の確率は最も高くなるのである。
 日本では『プルターク英雄伝』の著者で知られているプルタルコスは、ローマが強大になった要因は敗者の同化にあった、と言いきっている。この人は五賢帝時代に生きたギリシア人だが、敗者同化どころか同盟都市の市民にも自国の市民権を与えることを拒否しつづけた歴史をもつ、ギリシア人の口から出た言葉だけに意味が深い。
 ギリシア人にとっての市民権は、生れたときから持っている「既得権」であった。反対にローマ人の考えていた市民権は、意志とその成果に対して与えられる「取得権」であったのだ。後者のほうが、他者に対して門戸が開かれていたのも当然だろう。「血」は誰にももてるわけではないが、「意志」ならば、もとうと思いさえすればもてるのだから。
 それに、ローマ社会の構成からして、異分子の導入には好都合にできていたのである。

 ギリシア時代の代表的な都市国家であったアテネも、上から下に、指導者−市民-奴隷の階級別があったが、ローマ帝国の社会の各層となるとより細分化されていた。皇帝-元老院階級−騎士階級−一般市民−解放奴隷−奴隷というように。細分化が可能であったのは、民主政体をとっていないローマでは、市民全員の平等の維持に気を使う必要がなかったからである。だが、この階級の細分化が、異分子の導入を促進させる結果になった。なぜなら、各階層間の流動性さえ機能していれば、同質社会よりも異質社会のほうが風通しを良くするには都合がよい。他国人のような異分子に対しても、まずは最後列に並んでください、その後の前進はあくまでもあなたしだいです、と言えるからである。
 広大なローマ帝国を網羅していたローマ街道網は、人間の肉体のすみずみにまで血を通わせるのに不可欠な血管網の役割を果していたとは第X巻で書いたことだが、ローマ市民権もまた、ローマ街道網に似た役割を果していたと私は思う。新しき血を、つまり新しき人材を常に供給するシステムとしてである。意欲さえ充分ならば獲得も可能な取得権であったからこそ、ローマ市民権はそれをいまだ持っていない属州民には魅力を感じさせ、それゆえにローマ帝国を活かす力になっていたのだ。
 それを、皇帝カラカラは一変させてしまったのである。属州民でも業績の如何にかかわらず、誰にでもローマ市民権を与えたことによって、「取得権」であったローマ市民権を、アテネの場合と同じ「既得権‘に変えてしまったのだった。(p26-30)




 社会の安全度を計る計器は、住民の居住区域の周囲を守る防壁の有無の他に、まだ三つある。そしてこれらはすべて、社会の健全度も映し出していた。
 第一は、人々の居住地域が防衛のしやすい高所に固まっていず、平地に分散していること。これは、土地の有効利用の度合を映し出す。
 第二は、産業の主力が、いざとなれば連れて逃げられる牧畜よりも、農耕に置かれていることだ。農耕が盛んであるということは、社会が平和であるということでもあった。
 第三は、交通手段が整備されていることと移動中の安全が保障されているために、人と物の交流が盛んになり、それによって各住民共同体の関係が閉鎖状態になっていないこと。今風に言い換えれば、ローマ帝国内部でのグローバル化である。
 これが、「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)の真の姿であった。ローマ帝国はそれを、辺境地帯においてさえも実現していたのである。それも、十年や二十年の話ではない。三百年の長きにわたって、現実にしてきたのであった。マルクス・アウレリウス帝時代に「防衛線」が破られたことはあったが、それも早期の撃退に成功し、その後の蛮族との戦いは国境の外で行われている。つまり、「パクス・ロマーナ」が完璧に機能していた時代では、戦場は帝国の「内」ではなく帝国の「外」であるべき、の基本戦略は守られていたのであった。(p248-249)
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