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ローマ人の物語X すべての道はローマに通す
ローマのすごかったのは、ローマ街道という長大なネットワーク、インフラを作ったことだけではない。それを維持しつづけたこと。維持するためのインセンティブも幾重にも設定されていた。街ができてまだ20年くらいしか経っていないのに、我が街の道路は既にボロボロ。何百年もインフラとして機能させてきたローマのスピリット、すばらしい。
 第二の鍵は、ローマの皇帝たちには誰一人、支那の皇帝のように不老不死の方策を求めて狂奔した者はいなかったという事実だ。それどころか、死期の迫った皇帝の延命を願って、犠牲式を挙げて神々に祈願するよう神殿という神殿に中央政府からの布告が発せられたという史実もない。人気の高かった皇帝が病に倒れたときなどに、自然発生的に人々が神殿に参ることはあった。だが、これとて上からの命令ではなかった。そして、有力者たちでも、死期の到来を悟ったときは自ら食を断つというやり方で自死を選んだ人も少なくない。キケロの親友のアッティクスとか、皇帝ネルヴアの祖父とか、人生を自らの意志で終えた人の例は数多くあげることができる。
 これらの事実からも、カエサルが考えアウグストゥスが政策化したローマ帝国の医療システムは、古代のローマ人の死生観を反映していたのではないかと思えてくる。俗な言い方をすれば、寿命がつきたのならばジタバタしない、とでもいうような。若くて元気な者たちの戦闘での傷や病に対しては徹底して医療を施すが、そのような不運に襲われなくても寿命がつきたのならば従容と天に昇っていくのが、死すべき身である人間の生き方である、と。ローマ人の墓碑は、DとMの二文字ではじまっていることが多い。死者を両脇からささえて天に連れて行く二人の天使へ、という意味の略字である。庶民は、死ねば二人の天使が迎えにきて、両腕をとって天に昇らせてくれると信じていたのだった。
 もちろん教養人は、そのような夢幻はいだかない。皇帝ハドリアヌスは辞世の詩で、「薄暗く寒く何もなく、冗談を言い合う愉しみもない世界」へ降りて行く身を嘆いている。たしかにそのとおりだが、私か最も気に入ったのは、読み人知らず、とするしかない一人のローマ人が墓碑に刻ませた、次の一句であった。
 「わたしは死んで、ここに葬られている。灰の一つかみでしかなくなったのが今のわたしだが、灰は土になる。土は大地に浸透し、人間世界の土台をつくる。となれば、わたしは死んではいず、世界中で生きているということではないか」
 ただしこれはまじめな墓碑の一例であって、次にあげるのはその反対の例。
 「湯浴みと酒と女が長生きの敵であることはわかっている。だが、湯浴みと酒と女がない人生は人生ではない。と思って、五十二歳まできたところでそれも終った」

 ローマ街道は、都市に近づくにつれて立ち並ぶ墓の列の間を通っていくように変わる。ローマ人は墓を、不浄なものとは考えていなかった。幹線道路の両側がさまざまな様式の墓で埋まるようになった理由の第一は、人間が集まる場所である都心部には、死者のための場所まで確保してやる余裕がなかったこと。アウグストゥス帝が建てた皇帝廟も、トライアヌス帝の遺灰を収めた土台の上に立っているトライアヌス円柱も、皇帝廟では埋葬しきれなくなってハドリアヌス帝がテヴェレの右岸に建設し、現代ではカステル・サンタンジェロと呼ばれている皇帝廟も、ぎりぎりにしろローマ人が都心と考えていた地域の外に位置している。皇帝でさえもこうでは、他の人々は都市の外に墓をつくるしかなかった。
 理由の第二は、コルネリウス一門のようなごく少数の例外を除けば、ローマ人の大半は遺灰埋葬であったことである。遺骨や遺灰ならば清潔で、わざわざ地下深く掘って埋葬する必要はない。ローマ人とちがって遺体埋葬であったエトルリア民族やユダヤ民族だからこそ、生者とは隔絶した場所に、死者だけの墓地をつくる必要があったのだ。同じくローマ帝国の民でもエジプト人は、昔からの慣習どおりにミイラにして埋葬する方法を守りつづけた。墓を見るだけでも、その民族の死生観が想像できるのである。
 ローマ人の墓には、誰それの墓などと死者の姓名のみを刻んだものはほとんどない。墓碑銘というよりも、メッセージの氾濫である。なにしろ人の行き来する街道に臨んでいるのだから、生者へ向けてのメッセージも、それが読まれる確率は高かったにちがいない。
 夭折した息子や娘を哀惜する親の情を記したものは、当然ながら多い。だがそれに劣らず、履歴書かと思うような墓碑もすこぶる多い。また、先に紹介したような人生観を記した墓碑や、死んだ夫や妻への愛情を吐露したものも少なくない。地位が高かった人よりも、庶民のほうがよほど饒舌だ。そして、これらの墓は、街道を行き来する人々にとっては格好の休息所でもあるのだった。
 ローマ街道も幹線になると、幅四メートルの車道とその両側を通る幅三メートルの歩道で成り立っていた。計十メートルになる街道では、そのすぐ外側にさえ樹木を植えることは許されていない。石を敷きつめた舗装なので、地中を延びてきた根によって、敷石がゆるがされる事態に対する防止策なのだ。街道ぎわでも許されていたのは歩道の外側に並ぶ墓であり、墓所の周囲ならば樹木を植えてもかまわない。こうして、長い道のりを旅してきた旅行者たちは、樹木が影をつくっている墓所の階段にでも腰を降ろして、ひとときの休息をとることができるのだった。死者が残した、生者へのメッセージでも読みながら。遺灰埋葬であり地獄の概念もなかった時代では、生者も死者も、このように隣り合って共生できたのである。だがこの時代も、紀元四世紀を境に変わる。そして、医療制度もまた、キリスト教の勝利とともに様変わりしていくのである。

 国家が率先して医療を担当することが医療制度の進歩と言うならば、その時代が来たのだった。ローマを分けていた十四の行政区の一区ごとに、国費で給料を支払われる医師が勤務する病院ができる。これらの医療施設に行けば、医療費は無料。友愛と慈善がモットーのキリスト教にすれば、診療費を払えない貧乏人でも医療を受ける権利があるからであった。
 しかし、これは建前であって本音ではない。四世紀当時はまだ、キリスト教を認めたのは中央政府であって、ローマ帝国の住人のすべてがキリスト教徒になったのではなかった。庶民の多くはあいかわらず、具合が悪くなるや医神アスクレピウスの神殿に参ったり、熱や腹痛を担当していた神々の祠に駆けつけたりしていたのである。これでは、他の神を認めないからこそ一神教である、キリスト教にとっては困ることになる。それで、医療費はタダにすることで、人々の足を、神殿から公立の病院に向けさせようとしたのである。
 だがこれも、すぐには成功しなかった。医学知識ではなく信仰の強さを規準にして選抜されたキリスト教徒の医師たちの治療能力がまだ充分でなかった事情もあって、人々はあい変わらず町医者に通いつづけだし、神頼みのほうも、慣れ親しんできた神々ゆえにそうは簡単には離れられない。キリスト教下での公立病院制度が成功するのは、四世紀末のテオドシウス帝による、他の諸宗教の排除宣言からである。このときから、キリスト教以外の他の宗教はすべて邪教とされ、それを信じようものならその人は、邪教の徒と断じられて罪とされることになった。こうなってはもはや、神々の神殿や祠に参る人はいなくなった。
 医療を「公」が中心になって担当する分野であるべきという考えは、現代国家の予算に占める医療関係費の割合の高さを見るだけでも、莫大な経費を要する事業であることがわかる。ところが、紀元四世紀のローマ帝国の経済は、諸々の事情があったにせよ、今風に言えば破産状態にあったのだ。一方、「私」が中心になって担当すべき分野と考えたカエサル時代のローマの経済力は、上昇の一途にあったのである。それゆえに、現代の研究者たちの一部が唱える、ローマ帝国における医療制度の完全な欠如、とは、経済力を反映しての政策ではなかったことがわかる。これはもう、「公」中心か「私」中心かの、概念のちがいに帰すしかない問題ではないだろうか。
 ギリシアとローマに代表される古代の盛期とキリスト教が台頭する古代の末期を、「貧」をどう考えたかの一点で比較するには、次の二人の言葉を読み比べるだけで充分と思う。
「貧しいことは恥ではない。だが、貧しさに安住することは恥である」
「貧しき人は幸いなれ」––––イエス・キリスト
 キリスト教の「慈愛」は、近現代になると「人権」にとって代わり、医療もまた「公」中心の担当分野と考えられて現在に至っている。そして教育のほうも、「私」中心主義から「公」中心主義に移行したという点で、医療と似ていたのであった。(p210-212)
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