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ローマ人の物語XI 終わりの始まり
コミュニティのリーダーの正当性をどう扱うか、というのが取り扱われた巻。

養子縁組で皇統に引き込むことで、権威の移譲が奇跡的にスムーズに行われてきた五賢帝時代。

世襲は内戦の危機を事前につめる権力移譲の有力なシステムだけど、優秀な頭脳をリーダーに据えるシステムを止めることになる。一方、養子は優秀な頭脳をリーダーに据えられるシステムだけど、最後まで正当性の問題が残り、内戦のリスクを孕む。いろいろ難しい。
  キリスト教徒

 疫病の流行とそれにともなう社会生活の沈滞と、北方から迫る蛮族の脅威は、ローマ人の心を暗く重く変えつつあった。凱旋式の日にローマ中を満たした祝福と歓喜が、いつのことであったのかと思われるほどだった。
 皇帝マルクスは、この重い気分を一新するために、神々への祈願をこめた祭儀を大々的に挙行する。皇帝は二人いたが、最高神祇官は彼一人だ。ローマ中の主要な神殿を一つ一つまわって行われた祭儀には、白いトーガの端で頭部をおおっだ皇帝を先頭に、その近くに住む住民が大人も子供もこぞって参加した。
 ただし、ローマ人にとっての神々への「祈願」とは、神々に向って、この不幸から救い出してください、と願うものではない。この不幸から脱出するためにわれわれ人間は懸命の努力を払うことを誓うから、どうぞ神々も、このわれわれを助けてください、と願うものなのだ。ユダヤ教やキリスト教のような一神教の神は、人間に生きる道を指し示す神だが、ギリシア人やローマ人は神々にはそれを求めない。人間の生き方は人間自身が考え決めるものであって、神々の役割は、その人間の努力を援護するところにあると考えられていた。
 祭儀は、望む者は誰でも参加できるように、また火を使うこともあって、屋外で行われる。神殿の正面に向って登る階段の中央の一部が踊り場のようになっているのが遺跡で遺っているが、あの部分には祭壇が常置されていた。祭儀とは、その上で犠牲に供された動物を焼きながら祈るのである。ただ焼くだけでは単なるバーベキューだから、アラビア産の香料を火にくべながらその香りの中で祈願する。祭儀が終われば、ローストされた肉は切り分けられ、参加者たちに分配される。説教も讃美歌もないのは、ローマ人の宗教には専門の祭司階級が存在しないからだった。祭司は、国家規模ならば皇帝が務め、家族規模になると一家の長が務めたのである。しかし、このように住民がこぞって参加する祭儀をあちこちで行ったことで、それに参加しない人々の存在がかえって目立ってしまったのだった。
 キリスト教徒たちは、第十二と第十三と第十四の区に、彼らだけのコミュニティをつくってかたまって住んでいた。第十二と第十三の区はローマの南に、第十四区はテヴェレ河の西に位置するが、いずれも都心部からは遠く離れている。そこで彼らは、聖パウロの教えに忠実に静かに暮らしていた。聖パウロは信徒たちに、次のように説いている。
 「あなた方の日常は、たがいに悪口や不平を言わず争いも起さずに、目立たないように進めていかねばならない。神の子たちは誰でも完全無欠であり無垢であるからだが、邪悪で堕落したこの社会に非難の口実を与えないためでもある。邪悪で堕落したこの社会に生きていても、あなた方だけは闇夜に灯を捧げもつように、神の教えを守り立てていかねばならないのである」
 皇帝を先頭にしての祈願に、キリスト教徒たちが参加しなかったのも、これでは当然だろう。「邪悪で堕落した社会」はローマ帝国であり、神の国は、そのローマ帝国が崩壊した後に訪れるキリスト者たちの時代であるのだから。また、一神教という、他の神々は認めないことによって成り立つ宗教を信ずる以上、他の神々への祈願に参加できるはずもなかった。
 このキリスト教徒たちも、しばらく後には彼らの生き方の大転換を行うことになるが、それについては次の巻にゆずるとして、マルクス・アウレリウス時代のキリスト教徒はいまだ、百年前の聖パウロの教えに忠実に生きていたのである。つまり、同じ都市の中であっても他のローマ人とは、離れて暮らしていたのだった。
 しかし、危機は、人々の心の中に愛国心を呼び起す。ローマ人たちが伝統の神々を再認識していたこの時期、それに同調を拒否するキリスト教徒に、ローマ人側からの反撥が高まったのだった。ローマ人はキリスト教徒たちを、「アテオ」と呼んで非難した。ギリシア語に起源をもつこの言葉は、現代では「無神論主義者」と訳されているが、ローマ時代では「無信仰者」の意味であったのだ。
 古代は多神教の世界であった。多神教の世界とは、自分の信ずる神も他者の信ずる神も同様に認める考えが支配的であった世界である。この結果、共生する神々の数も増え、ローマでは三十万にもなってしまったのだが、神々の共存を認めることが信仰であるとするこの考えに立てば、共存を認めない信仰は信仰ではないことになる。ゆえに、「無信仰者」という非難が浴びせられたのだった。
 もう一つ、市民だちからキリスト教徒に向けられた非難があった。それは、公生活への参加拒否、である。キリスト教徒たちは自分たちの間では相互扶助に熱心だったが、彼らが住む都市や地方自治体が行う公共事業や福祉への貢献には熱心ではなかった。これは、公生活に参加することこそ市民の義務であるとする考えがまだ勢いを失っていないこの時代、充分に非難の理由になったのである。だが、キリスト者の立場に立てば、不参加も当然だ。神の国の到来を待ちながら生きているのが今の社会なのである。邪悪で堕落したこの社会に貢献しようものなら、神の国の到来がそれだけ遅れてしまうではないか。
 しかし、この両者の対立は、紀元二世紀後半のマルクス・アウレリウスの時代にはまだ、決定的にはなっていなかった。その理由は一にも二にも、キリスト教徒が少数派で力も弱かったからである。そして、キリスト者たちの数も力もその程度で留まっていた理由は、こちらのほうも一も二もなく、ローマ人が自分たちのリーダーたちを信頼し、自分たちの生き方に自信をもっていたからであった。(p110-113)
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