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ローマ人の物語次ヾ躓,塙酩
大学入ってからすぐにでも、この本読んでおけばよかった。と思うこと連続の、安定の一冊。
パンとサーカスは娯楽提供ではなく、かなり精緻に設計された社会福祉政策だったんですね。
五、社会福祉費
 
「小麦法(レックス・フルメンターリア)」によって、首都在住の市民には、毎月五モディウスの小麦の無料給付を受ける権利が認められていた。
 この歴史は古く、紀元前二世紀にまで遡る。ヴェスパシアヌス帝の治世からすれば二百年もの間つづいてきた制度で、紀元前二三一年、護民官であったグラックス兄弟の弟のガイウスが成立させたのが「小麦法」のはじまりであったのだ。当初は、貧民には市価の六〇パーセントで主食である小麦を配給するという、いわゆる政治価格での給付だったが、これが政争の具と化した結果、紀元前一世紀からはついに無料給付となって定着する。帝政に入ってからの受給者総数は約二十万、この一人一人が1ヵ月に五モディウス(約三十キロ)の小麦を無料でもらうことができたのだった。
 受給の資格は、首都在住のローマ市民権所有者。首都とかぎったのは、古今東西貧困者が流れこむのは、大都市と決まっていたからである。また、直接間接に皇帝への支持不支持を明らかにするのも、これら首都在住の「有権者」たちであった。「小麦法」は、有権者対策でもあったのだ。
 女と十歳以下の子供は、受給資格者とは認められていなかった。こうなると、理論的には、元老院議員であろうと騎士階級に属す「ソチエタス」の社長であろうと、もらおうと思えばもらえたのである。
 だが、「小麦法」の真の目的は、貧しい人々を飢えから救うことにある。とはいえ有権者対策でもあるから、対象を貧民層にかぎったのでは効力を失う。それでローマの当局は、妙案を考え出したのである。一ヵ月に五モディウスの小麦無料給付と祝祭日の催し物の無料入場券の受給を申請し、それが認められて発行される証明書(Frumentum Publicum)を得るには、受給者自らが出頭しなければならない、と決めたのであった。庶民や解放奴隷とともにマルス広場の長い行列に加わり、行列していれば知人友人に出会うという屈辱にも耐え、しかも長時間待ってようやく手にする時間上の無駄という、数々の無形の障害を設けたのである。この方法をとることで、ほんとうに福祉を必要とする人々だけが享受できるようにしたのであった。
(p238-239)




  「パンとサーカス」

 後世の人々がローマ人を非難する際にまずもち出されるのが、「パンとサーカス」(Panem et circnses)であることは知られている。ローマ人は食を国家から保証されていたので働く必要がなく、これも国家提供の闘技等の催し物を愉しみながら遊んで暮らしていた、というわけだ。
 ではここに、親子五人の一家がいたとしよう。三人の子のうち上の二人は十歳を過ぎているが、その二人のうちの一人は女子、十歳に満たない末っ子は男子とする。この一家で「小麦法」によって保証された権利を享受できるのは、父親と長男の二人だけである。この二人への1ヵ月の配給量は十モディウス、約六十キロの小麦になる。どうやら給付は小麦粉ではなく、脱穀はしてあってもつぶのままの小麦であったようだが、一日当たりの給付量にすればニキロになる。それでまず、粉にする費用がかかる。また、粉にした後のローマ人の小麦の料理法には大別して二つあり、第一は、パン焼き屋にもって行ってパンに焼いてもらうこと。第二は、野菜やチーズを入れて煮込んだポタージュで食べるやり方、であった。いずれの方法にしても、お金がかかる。第一の場合はパン焼き屋への払い、第二の場合は、混ぜ込む材料を買う費用にプラス燃料代。これらの出費は計算に入れないとしても、小麦ニキロを使った料理で一日に得られるカロリーは、四千キロカロリー前後であったろう。一家五人がこれだけで、生きていけたであろうか。
 日本で行われている生活保護は、職に就いて収入を得はじめると打ち切られる。だが、古代ローマでは、職業をもっていても小麦の受給資格は失われない。一家五人で四千キロカロリーだけでは餓死しないというだけで、それ以外は保証していないからである。独身者でも、さしたる差異はない。一日に一キロの小麦はタダでも、共同住宅の一部屋でも借りていれば部屋代がかかる。また、衣料を買う必要もあるし、まずもって、小麦だけを食べていたのでは栄養不良になり、果ては病気になる。働いて収入を得る必要は、絶対にあったのだ。国家が与えた保証は、くり返すが、飢え死はさせない、の一事だけであったのだから。
 「パンとサーカス」とは原語であるラテン語でも記したように、ローマ人自らが言った言葉である。だがこれは諷刺作家の誇張であって、そのような誇張を鵜呑みにしたのでは、歴史上の真実に迫ることができなくなる。それにこの「小麦法」が存在したことで、百万都市ローマでも餓死者と無縁でいられた事実は無視できない。また、類似の社会福祉は、帝国の経済力の向上にともなって地方都市や属州にも普及していったので、あの広大なローマ帝国で飢餓が原因の集団死は、まったくと言ってよいくらいに起こらなかった事実は、特筆に値するのではないだろうか。これが、毎日のようにアフリカやアジアでの飢餓をテレビで見せられる現代からは、二千年も昔のことなのであった。
 しかし、一人当たりならば餓死しない程度の給付にしろ、それが二十万ともなれば国庫の負担は重くなる。小麦一モディウスの市価は平均して十セステルティウスであったというが、「小麦法」の国庫への負担を市価で計算することはできない。それに小麦は、ネロ時代からは非課税だった。ゆえに、生産者価格にプラスされるのは、「ツチェタス」所有の船に積みこまれてオスティア港に荷揚げされるまでの輸送料である。これらをすべてプラスしても、一モディウスの値は六セステルティウス前後ではなかったかと思う。
 二十万人に与えるに必要な一年分の小麦の総量は、一千二百万モディウス。これに要する費用が七千二百万セステルティウスとすれば、ローマ帝国の社会福祉費は、ローマ全軍の将兵に支払う給料の三分の一にもなったのである。餓死者を出さない政策は、相当な出費を必要としたのだ。だが、それでも皇帝たちはつづけた。「小麦法」を享受できる人以外が必要とする小麦に対しても、供給量の確保と価格の安定には、港湾や倉庫の設備を充実させるなどして努力を怠っていない。ローマ皇帝の二大責務が安全と食の保証にあったからで、この二つのうち一つでも欠けようものなら、競技場でブーイングを浴びる程度ではすまず、悪くすれば殺されてしまうのであった。(p240-241)




 医療に関してのローマ人の考え方は、彼らの死生観に起因していたのではないかと思う。帝国という共同体の平和の維持のために負傷した者には、完璧な治療が保証される。しかし、生命、日本で言う寿命、は甘受する。こうなると病気の治療への努力も、治る可能性があるかぎり、となりはしないか。ローマの皇帝のただ一人といえども、自らの延命に狂奔した大はいない。それどころか、社会的には高い地位にある高齢者が病に倒れ、もはや寿命と悟った場合に、それ以上の治療を拒否し、食を断ち、自死を選んだ例は少なくない。ローマ人は、自らの生命をいかなる手段に訴えても延長しようとする考えには無縁であったのだ。社会的にも知的にも高いローマ人になればなるほど、頭脳的にも精神的にも肉体的にも、消耗しつくした後でもなお生きのびるのを嫌ったのである。だからこそ、生命ある間を存分に生きる重要さを説いた、ストア哲学の教えが浸透したのではないかと思う。
 それに、ギリシアの医学の祖ヒポクラテスの教えも生きつづけていた。病気になって治療するよりも、もともとからある身体の抵抗力を高めることのほうを重視した考えである。ローマ皇帝たちが、大病院よりも大浴場や水道の建設に熱心であったのも、この考えの帰結かと思われる。(p244)




 もしも、国家ローマは本国イタリア出身の元老院議員が統治しつづけるべきだと主張した人々、つまりキケロやポンペイウスやブルータス等の「共和政派」が勝っていたならば、ローマ帝国は後代の大英帝国その他のように、本国が植民地を支配下におく形の帝国になっていただろう。しかし、国家ローマは、ブルータスに殺されたユリウス・カエサルが考えた道をたどって、本国も属州もふくめた一大運命共同体という形の帝国を創り出した。歴史家ギボンは、ローマがなぜ滅亡したのかと問うよりも、ローマがなぜあれはども長く存続できたのかを問うべきである、と言った。多民族、多宗教、多文化という、国家としてはまとまりにくい帝国であったにかかわらず、なぜあれはども長命を保てたのか、ということのほうを問題にすべきだ、という意味である。だが、それに対する答えならば簡単だ。ローマ人が他民族を支配するのではなく、他民族までローマ人にしてしまったからである。大英帝国の衰退は各植民地の独立によるが、ローマ帝国では、各属州の独立ないし離反は、最後の最後まで起こっていない。(p284-285)




一つの「計器」

 哲学は学んだが歴史を専門に学んだことのない私は、書く対象がルネサンス時代のイタリアであろうと古代のローマであろうとアマチュアにすぎない。ゆえに私の書くローマ史は、学者の書くローマ史ではなくて作家の書くローマ史である。とはいえ、ブレヒトやユルスナルの作品でもわかるように、作家だからと言って勝手気ままに書くわけではなく、対象に選んだからにはそれについての調査と研究が必要になる。ゆえに、調査研究の必要度ならば学者も作家も差はないのだが、それに取り組む姿勢となると、学者と作家とではちがうように思う。そのちがいを一言で片づければ、学者には史料を信ずる傾向が強いが、作家は、史料があってもそれらを頭からは信じない、としてよいかと思う。
 なぜ無条件に信ずる気持になれないかというと、歴史上の「証拠」とは歴史記述と考古学上の成果に大別できると思うが、歴史記述と言っても、本来的に客観的であることが困難な人間が書き遺したものであり、考古学上の成果も、現在までに発掘されたものにかぎられる、という二点を無視できないからである。歴史記述とはあくまでも、書いた人間というフィルターを通しての史実である。そして、考古学上の成果となると……。その例証には、都市ローマをあげるだけで充分だろう。現代のローマは古代のローマの上に建っており、ローマ帝国時代の「世界の首都」の全容を徹底的に追究したければ、現代のローマに住む人々に全員どこかに移住してもらい、ローマの街全体を発掘するしかないからである。ポンペイの重要性は、埋没したために人が住めなくなった、つまりその上に住んでいる人々を移住させる必要のない、古代の都市の全面的な発掘であるからだ。
 このように、歴史上の証拠ないし史料はかくも不確実な性質を伴うものなのだが、それでもなおこれらに立脚しないと歴史は書けない。ただし、信じて立脚するのと疑いをいだきながら立脚するのとでは、やはりちがう。このちがいは、人間性をどう見るか、によるのではないかと思っている。
 それで、学者ではない私自身の人間性への観方だが、ローマ史を書きつづけるに際して私か、自分の判断の基準にしたことが一つある。
 それは、最高統治者である皇帝が成したことが共同体、つまり国家にとって良いことであったか否かを判定するにあたって、タキトゥスをはじめとする歴史家の評価よりも、その皇帝の後につづいた皇帝たちが、彼が行った政策ないし事業を継承したか、それとも継承しなかったか、のほうを判断の基準にすえたのである。
 この「計器」を用いれば、ローマ史上最高の統治者は、何と言ってもやはりカエサルとアウグストゥスである。ローマ帝国とは結局、この二人が創ったのだ。ローマ人もこの二人だけを「神君」と呼びつづけたのだから、同感であったのにちがいない。そして、この二人につづいたティベリウスとクラウディウスも、夕キトゥスやスヴェトニウスからは悪帝と断じられたが、私の「計器」による評価では相当な率での名誉挽回は可能になる。ならば、悪名高きローマ皇帝の典型とされてきたネロはどうであろうか。
 パルティアとの恒常的な友好関係樹立は、たとえコルブロによる見事な準備が成されたにせよ、ゴーサインを出したのは皇帝のネロである。その結果、当時の二大強国間のこの良好な関係は実に半世紀もつづき、それを破ったのはパルティアではなく、ローマ側のトライアヌス帝であった。そして、関係が良好だったこの半世紀の間に帝位についた皇帝は、内乱時期の三人を除いて、ヴェスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌス、ネルヴァになる。これらの皇帝のいずれも、ネロが調印したパルティアとの平和協定を守りとおしたのであった。そして、攻撃型の皇帝であったトライアヌスの後を継いだ守勢型の皇帝であるハドリアヌス、アントニヌス・ピウスと、またも半世紀、ネロによる対パルティア友好路線は継承されていくのである。外政面ならば、ネロの功績は大きかったとするしかない。
 それならば、同じくネロの手になった「ドムス・アウレア」(黄金宮殿)の建設のほうは、どう評価するべきであろうか。
 あの事業は、ギリシア文化に心酔していたネロが、首都ローマの都心にギリシア式のアルカディア、つまり緑豊かな理想郷を実現しようとして着工させたものである。現代のエコロジストの賛意を得ることまちがいない、良き動機から出発していた。しかし、良き動機が良き結果につながるとはかぎらない。それどころかカエサルのように、「悪しき結果に終ったことの多くは、そもそもは良き動機から発していたのである」などと言う人もいるくらいである。ネロの夢であった緑豊かなローマの都心部は、ヴェスパシアヌスがコロッセウムを建設し、ティトゥスが公衆浴場を建て、トライアヌスがさらに大きな公衆浴場を建て、そしてハドリアヌスは神殿を建てることで、跡かたもなく地上から姿を消してしまったのだった。大都市の都心部の活用ということならば、ネロとそれ以外のローマ人たちの考え方がちかっていたからである。都心部は、集まった市民たちがともに何かを行うために活用さるべきというローマ式の考えに立つならば、そのローマ人の心情に反したことを断行したネロは、最高統治者としては誤りを犯したとするしかないのである。
 では、このネロと同じく死後に「記録抹殺刑」に処されたドミティアヌス帝の業績の評価は、どうなされるべきであろうか。
 私かこれまでに述べてきた彼の業績のすべては、法律実施の際の厳格すぎた点はゆるめられたにしろ、彼以後の皇帝たちにも継承されていくのである。未成年者の売春禁止法も、以後長く生きつづけた。だが、これらのどれにも増して特筆に値するのは、ライン河とドナウ河の両防衛線を連結することで防衛上の機能性の向上に功あった、「リメス・ゲルマニクス」(ゲルマニア防壁)の建設であろう。これは、タキトゥスのような文人には無視されたが、ドミティアヌス以後の皇帝たちでその補強に心を使わなかった人はいない。アッピア街道と同じで、敷設する意図が明確でしかも敷設する場所の選択さえ正しければ、後に来る人々に課されるのはその補強やメンテナンスにすぎない。「リメス・ゲルマニクス」建設は、ドミティアヌスの成した最大の功績であったとしてよいと思う。
 ならば、ダキア族との平和協定に対しては、どのような評価が妥当であろうか。
 紀元九六年に死んだドミティアヌスの後を継いだのは、ネルヴァである。だがネルヴァは、一年もしないうちにトライアヌスを養子にすることで、皇位継承者を明確にする。その直後に死んだネルヴァに代わってトライアヌスが帝位に就くのは、紀元九八年である。トライアヌスが、皇帝になっても前任地の高地ゲルマニア(リメス・ゲルマニクスもふくまれる)に居つづけながら準備に没頭し、紀元一〇一年になって開始するのが、史上有名なダキア戦役である。つまり、ドミティアヌスの死から五年足らずの後に、皇帝ドミティアヌスが成立させたダキア族との平和協定は、皇帝トライアヌスによって反古にされたことになる。
 ローマ人はやはり、カネを払って得た平和に納得することができなかったのである。「ダキア族はローマに敗れたにかかわらず勢威を高め」というタキトゥスの慨嘆が、紀元一世紀末のローマ人の想いであったのだろう。ちなみに歴史家タキトゥスは、ドミティアヌスよりは四、五歳若く、この皇帝とは文字どおりの同時代人であった。
 ドミティアヌスを見る市民の眼差しは、冷やかに変わっていたにちがいない。だが、ドミティアヌス自身は、さして気にもしていなかったように思える。皇帝のもつ権力の絶対的な優越性を、信じていたのかもしれない。この点でも、また孤独を愛し閉鎖的な性格であったことでも、彼が手本にしていたというティベリウスと似ていた。
 ティベリウスもそうだったが、このドミティアヌスも、帝国統治の最高責任者である皇帝としてなすべきと思ったことは、誰にも相談せずに実行している。その一つは、教育上の改革であった。これもまた、「リメス・ゲルマニクス」同様に、以後の皇帝たちに受け継がれていった政策である。いや、ローマ帝国が滅亡した後も長く読み継がれたのだから、「リメス・ゲルマニクス」よりも長命であったとすべきかもしれない。(p330-333)




 首都の有力者だちからは忘れ去られていたにちがいないマルティアリスの死をわれわれが知ることができるのは、小プリニウスが友人あての手紙に書いてくれているからである。それには、次のように書かれている。
 「創意に富み、強烈で激しく、辛辣を極め、塩味と苦味は充分だったが、無邪気さだけは薬にしたくもなかったのが、マルティアリスでありマルティアリスのエピグラムであった」
 鋭くも見事な批評である。そして、こんなふざけた作品はすぐに姿を消すと予想した同時代の知識人たちの思惑に反して、マルティアリス作の「エピグランマ」は二千年も過ぎた現代でも刊行されつづけているのである。もしも完全な翻訳があるのならば、一読をすすめたい。いっときとはいえ、厳しい顔つきを穏やかに変え、眉間に刻まれたしわを消し去るためにも。最後にもう一度、マルティアリスをどうぞ。
 ——ポストゥムへ——
 人生を愉しむのは明日からにしよう、だって? それでは遅すぎる、ポストゥムスよ。愉しむのは今日からであるべきだ。いや、より賢明な生き方は、昨日からすでに人生を愉しんでいる人の生き方ですよ。(p373)
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