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ローマ人の物語察^名高き皇帝たち
大学時代に読んだ、タキトゥスの「年代記」やスエトニウスの「ローマ皇帝伝」。
かなりセンセーショナルで、「マ・ジ・で・か!」と思って読んでたけど、それって尾ひれ背びれのついた話だったのね。
本書を読んで、ティベリウス、カリグラ、ネロの印象が変わった。みんなちゃんと政務とってたんだな。
タキトゥス自らが、息子ドゥルーススの死から二年が経った後の、紀元一元年の元老院でのティベリウスの言葉を紹介している。それは、ティベリウスの業績を讃え、彼に捧げる神殿を建てたいとの要請に対して、ティベリウスが断わった際の言葉である。
 「わかし自身は、死すべき運命にある一個の人問にすぎない。そのわたしが成す仕事もまた、人間にできる仕事である。あなた方がわたしに与えた高い地位に恥じないように努めるだけでも、すでに大変な激務になる。
 このわたしを後世は、どのように裁くであろうか。わたしの成したことが、わが祖先の名に恥じなかったか、あなた方元老院議員の立場を守るに役立つたか、帝国の平和の維持に貢献できたか、そして国益のためならば不評にさえも負けないで成したことも、評価してくれるであろうか。
 もしも評価されるのならば、それこそがわたしにとっての神殿である。それこそが、最も美しく永遠に人々の心に残る彫像である。他のことは、それが大理石に彫られたものであっても、もしも後世の人々の評価が悪ければ、墓所を建てるよりも意味のない記念物にすぎなくなる。わたしの望みは、神々がこのわたしに生命のあるかぎり、精神の平静とともに、人間の法を理解する能力を与えつづけてくれることのみである」
 これが、二年前の息子の死で落ちこみ、政務を投げてしまった人の言葉であろうか。死すべき運命の人間でもやれることはやるという、宣言ではないだろうか。現代の研究者の一人は、次のラテン語の格言くらい、皇帝ティベリウスにふさわしい句もないのではないかと言っている。
 FATA REGUNT ORBEM! CERTA STANT OMNIA LEGE(不確かなことは、運命の支配する領域。確かなことは、法という人間の技の管轄)
 これより二千年後の現代に生きるわれわれならば、このときのティベリウスの想いに共鳴する人のほうが多いのではないかと思う。(p128-129)




  奴隷解放規制法

 古代ローマの奴隷制を論ずる場合、奴隷制は人権に反するから廃止するのは当然という近代の視点に立つかぎり、論じ合うことすらできなくなる。奴隷制度は、古代のローマが崩壊してキリスト教の世界になった後でも全廃されたわけではなかった。キリスト教という真の信仰に目覚めない者はキリスト教徒とは同等の人間ではないとする教会の黙認の下で、非キリスト教徒の奴隷は存在しつづけたのである。これが全廃になるのは、人権尊重を第一にかかげた啓蒙主義によってである。だからどの国の奴隷制度廃止宣言も、十八世紀末に集中している。一方、古代ではソクラテスもアリストテレスも、奴隷制社会に疑いすらもたないで生きていたのである。ただし、古代人の奴隷に対する考えは、自分たちと宗教をともにしないがゆえに自分たちと同等になる権利をもたない人間、というのではなかった。戦争に敗れるとか、海賊に捕われるとか、または払えない借金のかたに取られるとか、でなければ奴隷の子に生れたとか、親に売られたとか、という「不運」に見舞われた結果、奴隷の身分に落ちた人々を指したのである。だからこそ、主人の温情によろうが金を払った結果であろうが、奴隷の身分からの解放が広く認知されていたのだ。身代金を払えば自由を回復することも可能な、海賊に捕われた大や戦場での捕虜と、境遇ならば同じであった。自由民と奴隷との区別は、信ずる宗教のちがいにはなく、この種の「不運」に出会わないですんだか、それとも出会ったか、でしかなかったのである。
 この考え方はとくに、ギリシア人と野蛮人を差別してこの境界を堅持しつづけたギリシア人よりも、都市国家を脱して領土国家に変貌する道を選択したローマ人のほうに強かった。アテネにもスパルタにも、解放奴隷という社会階級はついに生れなかったが、ローマには生れ、存続するのである。しかもローマ人は、この人々の中の有資格者には、ローマ市民権すらも与えた。
 まったく、ローマ人の家庭は奴隷なしには成立しなかった。国家の指導者層である元老院議員の家庭を例にとれば、毎朝主人のひげをそるのも奴隷である。料理し、給仕するのも奴隷。息子や娘の教育をまかせる家庭教師も、多くは奴隷。家計を預かるのも、主婦ではなくて奴隷。戦場であれば、武器を用意するのも奴隷。元老院議員には建前上は許されていないビジネスを、名を貸すだけでなく実務まで行うのも奴隷。主人が口述する手紙も、筆記するのは奴隷。国営郵便制度が使えるようになるまでは、手紙をもって遠くオリエントにまで旅し、返事をもって帰ってくるのも奴隷。海外に駐在し、主人の資産運用に努めるのも奴隷。等々……。
 それでいながら奴隷の反乱がほとんどと言ってもよいほどに少ないのは、彼らの世界のほうが、出生で差がつく自由民の社会よりも、より厳しく技能が問われる競争社会であったからである。教養が高いとか語学の才能に秀でているとか、芸能面で優れているとか、または商才では抜群とかの特殊技能をもつ奴隷は、引く手数多であったのだ。そして、このたぐいの奴隷こそ、解放奴隷になる最短距離にいる人々であった。また、たとえ特殊技能には恵まれていなくても、日々の生活をともにしていれば情もわいてくる。というわけで、古代のローマでは意外にも、奴隷解放は盛んであったのだ。アウグストゥスが規制に乗り出すまでは、事実上の野放し状態がつづいていた。これが実情では、リスクを伴わずにはすまない反乱に訴えるよりも、解放奴隷になることに努めるほうがよほど現実的な選択である。
 アウグストゥスによる奴隷解放規制法を、現代の研究者たちには、彼の保守性に帰す人が多い。だが私は、これもまたアウグストゥスの現実主義の例証の一つと考える。
 非ローマ市民のローマ市民化、つまり自分だちとの同化に対するローマ人の考え方は、カエサルが最も明確に示したように、優秀な人材の登用と、軍役等によってローマ帝国の安全保障に寄与した人々への論功行賞の二種に大別される。しかし、奴隷の解放を野放し状態にしつづければ、解放奴隷になればローマ市民権取得の道は開かれたも同然である以上、質の劣る奴隷たちまでがローマ市民に連なるようになるのは当然の帰結だ。そうなれば、ローマ市民権所有者全体の質の低下になるとともに、社会不安の原因になる危険も考えねばならなかった。(p337-339)




 ローマ人は多神教の民であるがために宗教面では実に寛容であったので、ユダヤ教の分派としか見ていなかったキリスト教に対しても、社会不安の原因にならないかぎりは許容する方針をつづけていた。しかし、寛容とは、相手に同意することではない。同意はしないけれども、相手の存在は認めるということである。ユダヤ教徒に対するローマ人の態度は、この意味の、私の思うには真の、寛容であったのだ。
 このローマ人とローマに住むユダヤ教徒の間にさしたる摩擦も起らなかったのは、ユダヤ教の選民思想も関係していた。ユダヤ人は、自分たちだけが神から選ばれた民族だと信じている。選民なのだから、それが他民族にもおよぼうものなら、もはや選民ではなくなる。ゆえに、自分たちの内部でのユダヤ教の堅持には熱心でも、他民族への布教には不熱心になる。ユダヤ教の布教など、聴いたこともないではないか。
 反対にイエスは、キリスト教の神の前には人間は皆平等である、と説いた。ユダヤ的な選民思想からの脱却である。だが私は、イエスの平等思想は、「キリスト教の神の前には」という前提条件がある以上、これも別種の選民思想であると思っている。とはいえ「選民思想」のこのちがいが、ユダヤ教徒の他者への態度と、キリスト教徒の他者への態度のちがいにつながったのである。つまり、他教徒への布教に不熱心なユダヤ教と、熱心なキリスト教のちがいだ。
 シェンキェヴィッチ作の『クオ・ヴァディス』中に、象徴的な一場面がある。ローマ有数の知識人で皇帝ネロの側近でもあるペトロニウスを、ローマで布教活動中の聖ヘテロが訪問し、キリストの教えに帰依するよう熱心に説く。それに対し、ペトロニウスは次のように答える。
 「あなたの説く教えは、きっと正しいものだろう。だがわたしは、死なねばならないときは、自ら毒杯をあおることを知っている。だから、放って置いてほしい」
 放って置かないのが、キリスト教なのである。キリスト教の立場からすれば、放っては置けないのも当然だ。彼らが信ずる神は唯一神であり、その神を信じない人は真の宗教に目覚めないかわいそうな人なのだから、その状態から救い出してやることこそがキリスト者の使命と信じているからである。だがこれは、非キリスト者にしてみれば、”余計なお節介”になるのだった。そして、当時のローマには、圧倒的に非キリスト者が多かったのである。
 当時のローマ人の眼に映ったキリスト教徒の余計なお節介は、多神教の立場からすれば傲慢不遜と同じだった。『使徒行伝』中の一エピソードだが、ギリシアを布教中の聖パウロは、多くの神々(ギリシア人も多神教徒だった)に捧げられた神像の列の最後に一つ、「いまだ知られざる神へ」と記された神像を見つける。ペテロとちかって戦闘的な布教者であったパウロは、群衆に向って声高に、「これこそがわたしの説く唯一神だ」と断言する。これに、ギリシア人が怒った。怒った人々は、パウロを街から追い出してしまった。
 いまだ知られざる神へ、とは、人間の知恵がおよばないことがあるかもしれないという、謙虚な心情の表現である。それを、これこそがわたしの説く神と断言するのは、人間の限界を知らない傲慢さの表われと、多神教徒のギリシア人は受けとったのであった。敗者の神々までも受け容れたあげくに三十万もの神々をもってしまうほどに寛容なローマ人も、怒ってパウロを追い出したギリシア人と同じように考える人々であったのだ。
 これに加えて、ローマ人特有の感情もあった。
 ローマ人は、破った後で自分たらと同化したエトルリア民族から、あらゆる事柄、アーチの造り方から儀式のやりりから剣闘士試合に至るまでのあらゆることを学んで起きながら、人身御供の習俗だけは絶対にまねなかった。敗れたカルタゴ人の首都を不毛の地に変えてしまった前二世紀当時のローマ人の心中には、幼児を犠牲に供するカルタゴ人への侮蔑があった。ケルト民族のドゥルイデス教を、ローマ帝国に加えたガリアからもブリタニアからも追放して恥じなかったのも、ドゥルイデス教には人身御供の習慣があったからである。ローマ人は、ギリシア人以上に、神に対してであろうと人間を犠牲に供する行為を嫌ったのだ。
 キリスト教のミサではパンと葡萄酒が供されることを、ローマ人も知っていた。そして、パンはイェス・キリストの肉を意味し、葡萄酒はイエスの血を意味することも知っていたのである。これは、ローマ人の考え方からすれば、自分たちが神に捧げる犠牲の牛や羊を、神前で焼き、それを切り分けて食するのと同じことだった。イエスの死も、単なる死ではなくて犠牲だと、キリスト教徒自身が言っていたからだ。
 自分たちは、犠牲に捧げた牛や羊の肉を食べる。しかし彼らは、犠牲に捧げた人間の肉を食べ血をすする。ローマ人にしてみれば、キリスト教徒は、エトルリア人以上の、カルタゴ人以上の、そして明らかな蛮族であったケルト民族以上の、野蛮な人間に見えたのである。一般のローマ人のキリスト教徒への嫌悪は、忌み嫌うというたぐいの感情に近かった。(p462-464)




 反体制は、ただ単に反対するだけでは自己消耗してしまう。自ら消耗しないで反体制でありつづけるには、現体制にとって代わりうる新体制を提案しなければならない。これをやってこそ、反体制として積極的な意味をもつことができるからである。
 しかし、ローマが帝政下で平和と繁栄を享受していた時代に生きた反体制は、それを提示することができなかった。もはや帝政は確固たるものであり帝国民のコンセンサスも得ており、それを廃して共和政時代のローマにもどるなどは、タキトゥスもスヴェトニウスも考えることはできなかった。
 では、現体制にとって代わりうる新体制を提示できない場合、知的な反体制人はどこに、自らの道を求めるのか。
 批判、である。それも、安易な。批判のための批判やスキャンダル志向に堕してしまうのは、それをしている人自身が、自分の言葉の効果を信ずることができないからである。研究者たちのよく言う「タキトゥスのペシミズム」の真因も、帝国の将来への憂慮ではなく、自身の考えの実現を望めないがゆえに生ずる憂愁に起因したと、私ならば考える。繁栄する資本主義国に生きる、裕福なマルクス主義者にも似て。
 だがその結果、ドイツの歴史家モムゼンの言う「記述するまでもない事柄を記述し、記述すべき事柄を記述しない」ということになってしまった。現代の日本人が、大新聞の社説とスキャンダルでいっぱいの週刊誌の記事のみで自分たちが後世に伝えられるとしたら、どう思うであろうか。しかも、ローマ皇帝たちにとっては不幸なことに、タキトゥスの文章力は社説を書く記者の比ではなく、つまり読ませ、スヴェトニウスの文章も、週刊誌の記事よりはよほど愉快で、ゴシップ好きを満足させるものであったのだ。おかげで、二千年間も読みつづけられる結果になってしまったのである。共和政時代の知識人キケロも言っている。権力者批判はいつでも人気がある、と。もちろんのこと日本でも、昔からタキトゥスとスヴェトニウスの著作の日本語訳は存在した。(p496-497)




 しかし、ローマ式の平坦で直線につづく街道を見たブリタニア人は、以前よりは多くの荷を、以前よりは少ない労働力で運べることを知ったであろう。広い屋根つきの会堂の中でならば、イギリスに多い雨の日でも、人々と会い話す愉しみも覚えたであろう。入浴の習慣は防疫にも役立つことを学んだであろうし、水道のおかげで遠方の泉にまで水を汲みに行かなくてもすむようになったし、論理的に話し合えば、なぐり合いに発展することも少なくなると知ったであろう。タキトゥスも言うように、天も地も水気が多いブリタニアだが、気温はさして厳しくはない。ローマ式の短衣でも長衣でも、寒さにふるえる日は少なかったにちがいない。
 これを奴隷化と断ずるタキトゥスは、私には、先進国の左派知識人を思い出させる。自分ではすべてを持っていながら、開発途上国の人々には、冷蔵庫や電気洗濯機や自動車を欲しがるから四六時中働くことになるのだと言い、本来の彼らの生活様式にもどるよう説く、恵まれた人の言葉でも聴くような想いにさせるのである。冷蔵庫や電気洗濯機がどれほど女たちの労働を軽減したかを、この大たちは考えてみたことはあるのだろうか。
 歴史叙述者としてのタキトゥスには、私は心からの敬意を払う。だが、それでもしばしば、「そんなこと言ったって、タキトゥス」とでも抗議の声をあげたくなってしまうのである。(p499-500)
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