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ローマ人の物語此.僖ス・ロマーナ
アウグストゥス治世の物語。

虚弱体質の我が身にとり、神君アウグストゥスを神棚に祀ろうかしら。病弱でもパフォーマンスを上げた人の格好のロールモデルだわ。
ローマ時代の「ノーメンクラトゥーラ」

 ローマには昔から、有力者は家を外にする際に、「ノーメンクラトール」と呼ぶ役の奴隷を同伴するのが習いだった。有力者なのだから、フォロ・ロマーノを歩いているだけでも、近づいてきて挨拶する人が絶えない。その人たち全員の名を覚えているなど不可能だ。それで、向うから人が近づいてくるのを見るや、「ノーメン」(名前)を「クラトール」(世話する役) の奴隷は主人にささやく。それで有力者も、こんな会話ができるというわけだ。
 「やあ、プブリウス・ヴァティニウス、元気でやっているかね」
 選挙戦中ともなれば、「ノーメンクラトール」の覚えていなければならないデータは、名前だけではすまなかった。また、向うから挨拶してくる人だけを相手にしていたのでは、当選は望めない。なにしろローマの有権者には、資産もないために日々の仕事からの収入にしか頼ることのできない人という意味の「無産者」もいれば、元は奴隷でも自由を得て解放奴隷と呼ばれている人もいる。解放奴隷も、一応の資産があって子に恵まれていれば、ローマ市民権をもらえたからだった。また、いかに父親は元老院議員でも自分は二十五歳では、挨拶する相手を選んでいては好感さえ獲得できない。「ノーメンクラトール」の頭の中は、コンピューター並みにならざるをえないのであった。
「やあ、ガイウス・スヴェトニウス、オリエントでの商売はうまくいってますかね。そう、それはよかった。もう候補者名簿で御存知と思うけど、会計検査官に立候補したのでよろしく願います」
 「クイントゥス・タキトゥス、ここであなたに会えるとは思わなかった。南仏属州に勤務中は、あなたの親族にはとても世話になって感謝している。今度、法務官に立候補したんだ。頼みますよ」
 執政官の候補者ともなれば、選挙運動とて品格は保つ必要がある。
 「やあ、きみか、ティトウス・プルタルコス。御子息がアテネに留学したと聞いたが、いつまであそこで学ばせるつもりかね? ほう、そんなに長く。わたしも、執政官を経験できればその後は、アカイアの属州総督(アテネもその管轄下)を希望するつもりだ。その折りは御子息にも、何かとお役に立てると思いますよ」
 ローマの指導者階級に属す者にとっては不可欠の「ノーメンクラトール」だったが、この職名の奴隷には、情報通であることでもう一つの仕事があった。宴会の席での席順、ローマでは寝台式の台の上に横に臥して食事するのが習いだが、その席順を決めるのも彼らの仕事であったのだ。有力者と親しくなりたい人は、この奴隷にチップを渡して、席順を有利にはからってもらうことも珍しくなかった。この「ノーメンクラトール」という言葉は、現代でも、語尾が少し変化しただけで使われている。共産主義国の特権階級は、「ノーメンクラトゥーラ」と呼ばれたのだから。(p91-92)




 平衡感覚とは、互いに矛盾する両極にあることの、中間点に腰をすえることではないと思う。両極の間の行き来をくり返しつつ、しばしば一方の極に接近する場合もありつつ、問題の解決により適した一点を探し求めるという、永遠の移動行為ではなかろうか。
 自由と秩序は、互いに矛盾する概念である。自由を尊重しすぎると秩序が破壊され、秩序を守ることに専念しすぎると、自由が失われる。だが、この二つは両立していないと困るのだ。自由がないところには進歩はなく、秩序が守られていないと、進歩どころか今日の命さえ危うくなるからだ。
 この考え方は、狂信とは無縁の思考法である。しかし、哲学を産んだギリシア人や法律の父となるローマ人にとっては、ごく自然で肌になじんだ思考法なのであった。ローマ人は法の創始者でありながら、次のような格言さえ遺しているのである。
 「公正を期してつくられるのが法律だが、そのあまりにも厳正な実施は不公正につながる」(p151)




 それにしても、と考えてしまう。虚弱なアウグストゥスが、なぜアグリッパよりも長生きできたのであろ
 国家の統治は、精神的にも肉体的にも重労働である。とくにアウグストゥスは、共和政体にあると見せかけながら帝政を確立するという、これ以上はないストレスを背負っていた。それに彼は、生れつき消化器系が弱かった。
 それでいてアウグストゥスは、健康の維持に特別な注意を払っていない。大病を患ったときに治療してくれたギリシア人の医者には特別待遇をもって感謝したが、常には医師をそば近く控えさせることはしなかった。食も、胃が命ずるままにいつでもどこでも取るので、間食ばかりという結果に終ることが多く、定時の食事の際には料理に手をつけないことなど始終だった。招かれた夕食の席でもしばしばこれであったというから、礼儀など無視したのだろう。
 食の好みは質素で、一般庶民のものであったと史実は伝える。家で焼いたパン、小魚、チーズ、果物と野菜があれば充分だった。それらをいつどのように食したかを伝える、手紙のいくつかが遺っている。
 「馬車の中では、パンとなつめやしの実をいくつか食べた」
 「輿がわたしを会堂から家まで運ぶ途中で、パンと葡萄を少しだけ食べた」
 そして、空腹をおぼえなければ食べないのである。
 「親愛なるティベリウス、休みの日のユダヤ人だって、今日のわたしほどは絶食しないと思う。今日一日で胃に入れたものといえば、日暮の入浴とマッサージの間に食べた、パン二切れだけだ」
お腹が空けば、水にひたした一切れのパンと西瓜の一片、レタスの茎のところを少々、という具合だった。
 葡萄酒を痛飲するなどということは、まったくなかった。健康を考えてではなく、胃が受けつけなかったのである。
 疲れれば、いつでもどこでも横になった。古代のローマ人には昼食後に一眠りする習慣はなかったが、アウグストゥスは、服も脱がずはき物もとらず、近くに横になれる物さえあればその上で、眼のところに片手を置いた姿で一休みするのが常たった。
 また、馬で行くよりも輿で行くのを好んだのは、幕を引いたその中で、大眼にふれずに横になれるからである。
 睡眠時間も不規則だった。眠りたいときはいつでもどこでも輿の中に逃げこんだし、夜中に目覚めて眠れなかったりしたときは、日の出とともに起床するローマ人の習慣に反して、日が高く昇った後でも寝ていた。
 起床時は、いつもつらそうだった。最高神祇官でもあったので、犠牲式をあげる必要から早起きしなければならない日も少なくなかったのだが、そのような朝は、責任感だけで寝床からわが身を引きはがす感じであったという。低血圧でもあったのかもしれない。
 暑さにも寒さにも弱かった。北風が吹きはじめるや、厚地の毛織りのトーガの下に、短衣を四枚、その下に毛織りのシャツ、またその下に綿のシャツを重ね着するのである。トーガでは隠れているがむき出しの脚部も、布地でゲートル風に巻いていたという。それならばガリア人のようにズボンをはけばよいのにと思うが、ズボンは北方蛮族の服装で、文明の民ローマ人がはいては面子にかかわる。腕も脚もむき出しのローマの軍装で北方の蛮族と闘いつづけたカエサルとは、アウグストゥスはこの点でもちがった。
 夏は、扉を開け放した部屋で眠るか、中庭に寝台を持ち出させて眠るかした。風通しが良すぎれば風邪をひき、陽光が強すぎれば頭痛に悩む始末。それでも、女のするように、傘をさしかけたりはさせなかった。
美麗な傘は、ローマ人が心中では軽蔑していたオリエントの君主の風俗であったからである。
 しかし、これでアグリッパよりは二十六年も長生きするのである。「自然」にまかせた結果であろうか。
 ついでに、というわけではないが、アウグストゥスの戦闘指揮官としての無能の原因も、彼のこの面での弱さから発しているのではないかと思ったりする。
 おそらくこの人は、戦場に出るたびに、敵が放つすべての矢が自分に向ってくると思えてしまうのではなかったか。すべての矢は自分に向って放たれ、すべての剣は自分に向って切りつけられる、と。こう思ってしまっては、軍勢の指揮どころではなくなる。恐怖は理の問題ではないから、どうしようもないのだ。カエサルには、この種の恐怖はなかったし、アグリッパも、この種の恐怖を感じない一人であったのだろう。
 アウグストゥスの暗殺への警戒は周到をきわめていて、元老院に登院する日は必ず、自派の屈強な元老院議員の十人ほどにまわりを固めさせていたという。カエサル暗殺の教訓から、殺されでもすれば現に遂行中の大事業も中絶することを怖れて、身のまわりの警護には神経を払ったのにちがいない。だが、政治家としての責任感に加え、肉体的な恐怖心もあったのではないか。短剣がわが身に突き剌さることを想像したときの、肉体的な恐怖心と嫌悪感も。
 よくもこれはども自分とちがう人物をカエサルは後継者に選んだと思うが、ポンペイウスの遺子との戦闘の際、険しいスペインの山野の行軍に青い顔をしてでも従いてきた十七歳当時のアウグストゥスに、カエサルは、強い責任感と自己制御の意志を認めたからであると思う。だからこそ、アグリッパを抜擢してアウグストゥスにつけることで、アウグストゥスに欠けている面を補足してやろうとしたのではないか。(p226-229)




 ローマ人の死生観は、死生観などという大仰な文字で言いあらわすのがはばかられるほど、非宗教的で非哲学的で、ということはすこぶる健全な死生観であったと私は思う。死を、忌み嫌ったりはしなかった。「人間」と言うところを、「死すべき者」という言い方をするのが普通の民族だったのである。墓も、死者だけを集めて生者の生きる場所から隔離した墓地を作るということはしなかった。郊外の一戸建てのヴィラの庭の一画に葬る人もいたが、庭に恵まれたヴィラの持主でもわざわざ、墓所は街道ぞいに建てるほうを好んだ。アッピア街道でもフラミニア街道でも、ローマ式の街道となれば都市を出たとたんに、街道の両わきはさまざまな造りでさまざまな社会階層に属す人々の墓が並び立つのが通常の景観であったのだ。街道とは、生者が行き交うところである。それで死んだ後も、なるべく生者に近いところにいたいからだった。
 とくに、行き交う生者の数がどこよりも多い都市に近い街道ぞいは、両側に並び立つ墓の間を歩いて行くようなものだった。これらの墓所は、各種各様のデザインを競った造りであり、墓碑に刻まれた文章も多種多様であったので、旅人には格好の憩いの時と場を提供したことだろう。墓碑に刻まれた文の中にも愉快なものが少なくなく、ローマ人の健全な死生観をあらわして余りある。
 「おお、そこを通り過ぎていくあなた、ここに来て一休みしていかないか。頭を横に振っている。なに、休みたくない? と言ったって、いずれはあなたもここに入る身ですよ」
「幸運の女神は、すべての人にすべてを約束する。と言って、約束が守られたためしはない。だから、一日一日を生きることだ、一時間一時間を生きることだ、何ごとも永遠でない生者の世界では」
「これを読む人に告ぐ。健康で人を愛して生きよ、あなたがここに入るまでのすべての日々を」(p256-257)
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