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ローマ人の物語后.罐螢Ε后Εエサル ルゴコン以後
ルビコン川を渡ったカエサルと3月15日の暗殺。第二回三頭政治オクタヴィアヌスの勝利で終わる巻。

下記でも引用してますが、社会が拡大し、格差が大きくなった時に、どうやって共同体を維持していくのか。社会に安定をもたらす中間層をいかに増やすか。現代の政治課題につながるヒントが盛りだくさんです。
 スッラは、反対派となれば誰であろうと殺した。このスッラには、苦渋はない。クールに殺しまくれたのは、悩みをもたなかったからである。
 反対にカエサルは、勝てる会戦でも回避に努め、殺そうと思えば殺せた捕虜に対しても、勝者の権利を行使せずに釈放した。その人が再び彼に敵対するであろうことも、充分に予想しながら放免したのである。
 〈わたしが自由にした人々が再びわたしに剣を向けることになるとしても、そのようなことには心をわずらわせたくない。何ものにもましてわたしが自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。だから、他の人々も、そうあって当然と思っている〉
 これは、人権宣言にも等しい。個人の人権を尊重する考えは、後代の啓蒙主義の専売特許ではないのである。
 しかし、他者の人権を認めながらも自分自身に忠実に生きることを貫くのは、実に難事であることも確かだ。右のカエサルの言をスッラが耳にしたとしたら、一笑に付したにちがいない。だが、一笑に付すスッラであったからこそ、タタミの上で死ぬこともできたのである。(p70-71)




 凱旋式は、いかにアイデア豊富なカエサルでも、古式に忠実な形で挙行された。
 まず、パレードに参加する全員が、城壁外のマルス広場に集合する。行列の最初から最後の者までそこで列を組むので、その日のマルス広場は、蛇のようにくねくねと曲がる列で埋まる。凱旋式の行なわれる日は休日になるから、パレードが通る沿道はもちろんのこと、スタート地点のマルス広場も見物人で埋まるのだった。
 行列が組み終わると、独裁官の権利で二十四人の警士(リクトル)を従えたカエサルが姿を現わす。軍団兵たちはいっせいに、軍団長の号令一下、直立不動で右手をななめ上にあげる式の敬礼で迎える。後に「ローマ式敬礼」と呼ばれるこの式の敬礼は、現代のわれわれでもナチスドイツの記録映画で眼にすることができる。まずはじめにムッソリーニがまねし、それをヒットラーがまねしたからである。異民族の共存共栄を史上はじめて実現したローマを、たとえ軍隊の敬礼にかぎったとしても、異民族排斥路線のナチスドイツがまねしたのには大変に異議があるが、軍隊の敬礼としてならば、英米式よりもかっこよいのではないかと思う。ちなみにムッソリーニは、ローマの警士の捧げもつ権標(ファッシ)から彼主唱の主義をファシズムと名づけ、師団と言わずに軍団と呼び、ローマ式敬礼を導入し、最精鋭軍団を第十軍団と名づけたりしてイタリア軍の強化に努めたが、結果は第二次世界大戦に見るとおりで終わった。形式も大切だが、中身がともなわなくてはどうにもならないという一例でもある。(p252)




 スッラもキケロもカエサルも、強大化したローマに統治能力を回復する必要があるとの認識では、完全に一致していた。そして、統治担当者である元老院階級の現状は、その任務を遂行するには不適格になったとする点でも、想いは同じであったのである。三人三様ながら、いずれも憂国の士ではあったのだ。
 では、この難問を、右の三人は、どの方法で解決しようとしたのか。
 スッラは、一言で言えば、システム内改革を断行したのである。誰も反対を許されない独裁官に就任することで一種の危機管理内閣を組織し、反対派は、殺し、公職から追放し、財産を没収するという弾圧政策によって一掃した後で断行したスッラの政治改革は、元老院体制を補強することで、統治能力の回復を目指したものであった。第郡『勝者の混迷』で詳述したように、年功序列制度を厳格に実施することで個人の台頭を防ぎ、同時に、統治者階級である元老院議員には統治者能力をみがく機会をより多く与えることで、指導者層の質の向上を狙ったのである。
 ただし、スッラの考えた統治者階級とは、彼と考えをともにする人々のみで構成されねばならなかった。詳細な「処罰者名簿」をつくるまでして徹底してなされた反対派一掃も、スッラにしてみれば、国政担当階層をローマの共和政体への忠誠度の高い人々で構成するという、彼なりの理由があったのである。このスッラよりは30年の歳月をへだてるキケロは、現在陥っている危機からローマを救い出す方策として、何を考えたのか。
 キケロは、スッラが断行したような、反対派一掃による統治階級の強化には反対だった。スッラの恐怖政治が、結局は人心の荒廃につながったのを、「カティリーナの陰謀」当時の執政官であった彼は、深く憂えていたからである。
 だが、同世代のカエサルのように、システムそのものを変えてしまうという考えにも同意できなかった。
 キケ口は、地方出身の成功者である。人間世界ではしばしば、部外者であった者のほうが、自分を受け容れてくれた現体制維持に熱心になるものである。
 とはいえキケロも、国家ローマの現状を憂うる想いは人一倍強かった。その彼がローマ改造の方策と考えたのは、彼の言葉を直訳すれば「公生活の浄化」である。これさえ実現すれば、国家ローマの将来も安泰だと、彼は考えた。
 そして、キケロはそれを、言論の力で実現できると確信していた。彼が発表した数多くの著作は、人間一般の徳の向上を目指す哲学書というよりも、ローマの公人の徳の向上を願って書かれたのである。裁判の弁護文でさえ、キケロの狙いはこの一点につきる。
 キケロは、得意絶頂のときならば、次のように自己定義するのが好きだった。
 Consul sine armis - 武力なき執政官
 Dux et imperator togae - トーガ姿の軍司令官
 Cedant arma togae - 文、よく武を制す
 しかし、現実のローマでは、スッラの断行したシステム内改革も時代に適応しないことがほどなく露呈し、キケロの唱えた公人の徳の向上も、結果はいっこうに芳しくないことを示すばかりだった。
 では、カエサルは、何をどのように改めようとしたのであろうか。紀元前四六年以後のカエサルは、かつてのスッラがもっていたと同じ、拒否権行使に妨害されることなく自らの考えの政策化を進めることのできる、独裁官としての絶対権力を手中にしていたのである。
 五十四歳を迎えていたカエサルは、まず、彼が樹立しようとしていた新秩序のモットーとして、「寛容(クレメンティア)」をかかげた。凱旋式挙行に際して配られた記念銀貨の一面には、クレメンティアの文字が彫りこまれている。カエサルは、自分はスッラとはちがう、とことあるごとに明言した。
 反対派の人々の名を列記した「処罰者名簿」の作成を拒否し、逃れている者も望むならば帰国を許し、早とちりしたアントニウス等には、ポンペイウス派の人々から没収した財産を返還させるか、所有主が同意すれば購入させるかしている。もちろんのこと、フォロ・ロマーノ内の演壇の上に、ポンペイウス派の人々の生首が並ぶこともなかった。帰国と公生活への復帰を望んだ者で、カエサルがそれを許さなかった者は一人もいなかった。「元老院最終勧告」発令によってカエサルを国家の敵とまで断じた、元執政官のマルケルスの帰国も許した。カエサルの願いは、敵も味方もなく一致団結して、国家ローマの再生に力をつくすことにあったのである。
 だが、このカエサルのやり方は、反対派を排除し味方だけで改革を行なったスッラのやり方よりも、よほどの難事業になるのはやむをえなかった。それでも、スッラのやり方がスッラの気質に合っていたのと同じく、これがカエサルの気質には合うやり方なのであった。
 このカエサルに対するローマ人の多くの反応は、ほっと安堵の胸をなでおろした、に尽きる。ローマ人同士が血を流し合うのに、多くのローマ人は疲れきっていたのだ。だが、ローマ人が同じローマ人を、寛容の精神にしても許すというのは共和政の精神に反するとする小力トーのような考えをもつ人々も、もはや明らかに少数派になってはいたが、いることはいたのである。小力トーはウティカで自死を選んだが、他の人々は、ポンペイウスの遺子二人が逃げたスペインに集まりはじめていた。
 ただし、『カトー』を刊行して小カトーの壮烈な自死を賞め讃えたキケロは、カエサルの寛容路線に賛意を表している。この時期のキケロは、かつての同志だちとカエサルの間の関係修復に、それが自分に課された天命でもあるかのように積極的だった。
 キケロがそれに熱心であったのは、彼の政治理念である、少数の優れた人々が主導する自由な共和国家の再建に、強権を手中にしたカエサルが力をつくすことを期待していたからである。国家は理念ではなく実際であり、問題はそれがよく機能するか否かにあると考えるカエサルを、キケロでさえも理解していなかったことを示している。この種の人々がしばらくすると、自分が理解していなかったことさえも気がつかず、裏切られた、と言いはじめるのも人間世界の常なのだ。戦場では孤独でなかったカエサルも、政治の場での孤独は避けることはできなかった。
 しかし、孤独は、創造を業とする者には、神が創造の才能を与えた代償とでも考えたのかと思うほどに、一生ついてまわる宿命である。それを嘆いていたのでは、創造という作業は遂行できない。ほんとうを言うと、嘆いてなどいる時間的精神的余裕もないのである。というわけでカエサルも、キケロの思惑などには無関係に、やるべきと考えた事柄を実行に移しはじめていた。その最初が暦の改革であったのが、実際家である彼を示して象徴的でさえある。(p264-267)




 「解放奴隷」登用

 なにしろ、カエサルが、ローマの通貨が「ローマ世界」の基軸通貨となるようにと設置させた国立造幣所の長と言ってもよい「造幣三人委員会」の初代メンバーは、三人ともが、カエサルが日頃から経済に明るいと認めていたカエサル家の奴隷だったのである。奴隷の身分では具合悪かろうと、カエサルは自由を与えての任命だったが、就任当時の彼らは解放奴隷であったのだ。
 グラックス兄弟の父親が執政官当時に成立させた法によって、元奴隷でも、五歳以上の子をもち三万セステルティウス以上の資産をもつ者は、つまりは一人前の市民に値する生活環境をもつ者は、もはや子の代まで待つことなくローマ市民権を取得できると決まって百二十四年が過ぎている。行政官僚や地方自治体の職員に登用される基盤は整っていたのだ。カエサルはそれを、はっきりと政策化したのだった。
 このカエサルのやり方に対して、世論の反撥はまったくなかった。もともとからしてローマ人の家庭は、奴隷なしには成り立たないのである。小規模の農家でも商店でも、一人や二人の奴隷はいて、主人といっても彼らと起居をともにする仲でしかない。元老院階級に属するほどの家ともなると執事がいて家事万端を取りしきるが、この執事も奴隷ならば彼の指揮下にある使用人たちも奴隷。家庭教師にも奴隷が多く、キケロに、お前なしではわたしの執筆活動は成り立たない、とまで言わせた秘書も奴隷。クラッススの演説草稿を書いていたギリシア生まれの奴隷秘書を、高くても欲しいと言う元老院議員は後を断たなかったのである。
 しかし、生涯このままの身分でかまわないと思う奴隷は、カエサルに心酔していたカエサル家のガリアやスペイン人の奴隷くらいで、多くの奴隷の願望は自由人になることであった。キケロの秘書も、いずれ解放奴隷にするというキケロの言葉を、生きる糧にしている。それがカエサルによって、解放奴隷にさえなれば、公生活にも参加の道が開かれたのだ。カエサルは、公務にたずさわる解放奴隷は、もはや「リべルトゥス」と呼んではならないとも布告している。ローマ帝国の効率よい機能を目的とした「新しい血」の導入は、ここでも開かれたのであった。(289-290)




 カエサルは、ローマ法の集大成も考えていた。
 成文法の民でないローマ人は、法律を成立させることにはすこぶる熱心だが、おかげで数多くつくられた法律も、使われない歳月がつづいたりすると忘れ去られてしまうことが少なくない。埋もれていた法律をもち出す名人であったカエサルだけに、誰でも読める形に整理する必要に敏感であったのかもしれない。
 しかも、ローマ法の集大成は、世界国家である帝国の統治にも役立つことなのであった。
第鬼『ローマは一日にして成らず』の中で、私は次のように書いている。
 「人間の行動原則の正し手を、
  宗教に求めたユダヤ人。
  哲学に求めたギリシア人。
  法律に求めたローマ人。
  この一事だけでも、これら三民族の特質が浮びあかってくるぐらいである」と。(p299)




−失業対策・植民政策
 失業とは、その人から生活の手段を奪うに留まらず、自尊心を保持する手段までも奪うことである。普通の人間は、何であれ働くことによって、自らの存在理由を感得していく。それゆえに、失業問題は福祉では解決できず、職を与えることのみが解決の道になる。
 この対策を誤ると、都市には人が必要以上に流れこむことになり、福祉政策の徹底・不徹底に関係なく、社会不安の温床と化す。
 ゆえに、グラックス兄弟は「農地法」実現に力をそそいだのであり、マリウスは、徴兵制を志願制に変えることによって、失業予備軍といってもよい農家の二、三男を軍隊に吸収したのだった。
 カエサルは、最初に執政官に就任した紀元前五九年に、農地改革であり失業対策でもある「農地法」を、グラックス兄弟以来七十年ぶりに再興している。またローマ軍団は、失業予備軍の吸収の機能を果しつづけていた。(p301)




 また、カエサルは、王位には執拗な拒否で対したが、ローマの将来がモナルキア(一人の統治システム)にあるとする考えを、隠したことは一度もなかった。実際、カエサルに近かった他の人々は、ヒルティウスにしてもバルブスにしてもアントニウスにしても、それを理解していたのである。彼らと同じようにカエサルと近かったデキウス・ブルータスや他の三人には、なぜそれが理解できなかったのか。
 理解したならば理解した段階で、もしも同意できなければ、ポンペイウス側に走ることもできたのである。モナルキア(君主政)には反対で、オリガルキア(寡頭政)に賛成であったのならば、「三月十五日」よりも以前に態度を決められたはずであった。ポンペイウスとカエサルの対決の行方は、内戦二年目のファルサルスの会戦までは混沌としていたのだから。
 私には、カエサルの言った次の一句で、なぜ、への答えを出すしかないように思われる。
「人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。多くの人は、自分が見たいと欲することしか見てい
ない」(p357)
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