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サピエンス全史 下巻
評価:
ユヴァル・ノア・ハラリ
河出書房新社
¥ 2,050
(2016-09-08)

上巻よりも社会システムに重きを置いた解説。
富の未来(上・下)」なんかで言及されているので、トフラー大好きっ子にはあまり新鮮味がないかも。
 生態系の悪化は、資源不足とは違う。前章で見たとおり、人類が利用できる資源は絶えず増加しており、今後もこの傾向は続く可能性が高い。資源が枯渇するという破滅的な予言がおそらく見当外れだと思われる理由もそこにある。逆に、生態系悪化の懸念については、十分過ぎるほどの確かな根拠がある。将来サピエンスは豊富な新材料とエネルギー源を支配できるようになるかもしれないが、同時に、残っている自然の生息環境を破壊し、他の生物種の大多数を絶滅に追いやるかもしれない。
 じつのところ、生態系の大きな混乱は、ホモ・サピエンス自体の存続を脅かしかねない。地球温暖化や海面上昇、広範な汚染のせいで、地球が私たちの種にとって住みにくい場所になる恐れもあり、結果として将来、人間の力と、人間が誘発した自然災害との間で果てしない鍔迫り合いが繰り広げられることになるかもしれない。人間が持てる能力を濫用し、自然の力に抗って、自らの必要や気まぐれを満たすために生態系を意のままに操ろうとすれば、予想外の危険な副次的影響がしだいに増えていく恐れがある。こうした影響はおそらく、生態系に一段と大きく手を加えることでしか制御できない。だがそれは、さらに深刻な混乱を招くだろう。
 多くの人が、この過程を「自然破壊」と呼ぶ。だが実際には、これは破壊ではなく変更だ。自然はけっして破壊できない。6500万年前、小惑星の衝突によって恐竜が絶滅したが、同時に哺乳類繁栄への道が開かれた。今日、人類は多くの種を絶滅に追い込みつつあり、自らをも消滅させかねない状況にある。だが、非常にうまく適応している生物もいる。たとえば、ネズミやゴキブリは隆盛を誇っている。こうした強靭な生き物たちはおそらく、核兵器による最終決戦後に煙の立ち上る瓦傑の下から這い出てきて、待っていましたとばかりに自分のDNAを広めることができるだろう。今から6500万年もすれば、高い知能を得たネズミたちが人間の行なった大量殺戮を振り返って、ありがたく思うかもしれない。ちょうど私たちが今日、恐竜を破滅させたあの小惑星に感謝できるように。
 それでもやはり、私たち人類が絶滅するという風説は時期尚早だ。産業革命以来、世界人口はかつてない勢いで増えている。1700年には、世界で約七億人が暮らしていた。1800年には、人口は九億五〇〇〇万になった。1900年までに、その数字はほぼ倍増して、一六億になった。そして2000年には、人口はその四倍の六〇億に増大した。現在では、サピエンスの数は間もなく七〇億に達しようとしている(p183-184)



 そのうち国家や市場は、強大化する自らの力を使って家族やコミュニティの絆を弱めた。国家は警察官を派遣して、家族による復讐を禁止し、それに代えて裁判所による判決を導入した。市場は行商人を送り込んで、地元の積年の伝統を一掃し、たえず変化し続ける商業の方式に置き換えた。だが、それだけでは足りなかった。家族やコミュニティの力を本当の意味で打ち砕くためには、敵方の一部を味方に引き入れる必要があった。
 そこで国家と市場は、けっして拒絶できない申し出を人々に持ちかけた。「個人になるのだ」と提唱したのだ。「親の許可を求めることなく、誰でも好きな相手と結婚すればいい。地元の長老らが眉をひそめようとも、何でも自分に向いた仕事をすればいい。たとえ毎週家族との夕食の席に着けないとしても、どこでも好きな所に住めばいい。あなた方はもはや、家族やコミュニティに依存してはいないのだ。我々国家と市場が、代わりにあなた方の面倒を見よう。食事を、住まいを、教育を、医療を、福祉を、職を提供しよう。年金を、保険を、保護を提供しようではないか」
 ロマン主義の文学ではよく、国家や市場との戦いに囚われた者として個人が描かれる。だが、その姿は真実とはかけ離れている。国家と市場は、個人の生みの親であり、この親のおかげで個人は生きていけるのだ。市場があればこそ、私たちは仕事や保険、年金を手に入れられる。専門知識を身につけたければ、公立の学校が必要な教育を提供してくれる。新たに起業したいと思えば、銀行が融資してくれる。家を建てたければ、工事は建設会社に頼めるし、銀行で住宅ローンを組むことも可能で、そのローンは国が補助金を出したり保証したりしている場合もある。暴力行為が発生したときには、警察が守ってくれる。数日間体調を崩したときには、健康保険が私たちの面倒を見てくれる。病が数か月にも及ぶと、社会保障制度が手を差し伸べてくる。二四時間体制の介護が必要になったときには、市場で看護師を雇うこともできる。看護師はたいてい、世界の反対側から来たようなまったくの他人で、もはや我が子には期待できないほど献身的に私たちの世話をしてくれる。十分な財力があれば、晩年を老人ホームで過ごすこともできる。税務当局は、私たちを個人として扱うので、隣人の税金まで支払うよう求めはしない。裁判所もまた、私たちを個人と見なすので、いとこの犯した罪で人を罰することはけっしてない。
 成人男性だけでなく、女性や子供も個人として認められる。歴史の大半を通して、女性はしばしば、家族やコミュニティの財産と見なされてきた。一方、近代国家は、家族やコミュニティとは関係なく、経済的権利と法的権利を享受する個人として、女性を捉える。女性も自分自身の銀行口座を持ち、結婚相手を決められるだけでなく、離婚したり自活したりすることさえ選択できる。
 だが、個人の解放には犠牲が伴う。今では、強い絆で結ばれた家族やコミュニティの喪失を嘆き悲しみ、人間味に欠ける国家や市場が私たちの生活に及ぼす力を目の当たりにして、疎外感に苛まれ、脅威を覚える人も多い。孤立した個人から成る国家や市場は、強い絆で結ばれた家族とコミュニティから成る国家や社会よりもはるかにたやすく、その成員の生活に介入できる。管理人に支払う額についてさえ合意できない高層マンションの住人たちが、国家に抵抗することなど、どうして期待できるだろうか?(p193-194)
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