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日本の歴史をよみなおす(全)
名字の歴史を知りたくて手に取った本。
一年くらい前に読んで、気になるところを抜粋してそのまま放置してました。
はじめに

第一章 文字について

村・町の成立丿遺跡の発掘から 15 日本人の識字率 20 片仮名の世界 24 女性と平仮名 30 文字の普及と国家 39

第二章 貨幣と商業・金融
宋からの銭の流入 49 富の象徴 53 どうしてモノが商品となるか 55 どうやって利息をとったか 60 神仏、天皇の直属民 63 聖なるものから世俗のものヘ 68 鎌倉新仏教の役割 74

第三章 畏怖と賤視
古代の差別 81 悲田院の大びと 86 ケガレの問題 89 「非人」の出現とその仕事 92 特異な力への畏れ 97 神仏に直属する「非人」101 河原者 103 放免 106 童名を名乗る人たち 109 聖別から卑賤視ヘ 114 『一遍聖絵』のテーマ 119 絵巻をさかのぼる 126 差別の進行 135 東日本と西日本の相違 137

第四章 女性をめぐりて
ルイス・フロイスの書物から 143 男女の性のあり方 148 太良荘の女性たち 156 女性の社会的活動 160 女性職能集団の出現 166 公的世界からの女性排除 170 穢れと女性 174 女性の地位の低下 178

第五章 天皇と「日本」の国号 
天皇という称号 183 「日本」という国号の歴史 189 天皇の二つの顔 193 租税の制度 195 「職の体系」、神人・供御人制と天皇 198 仏教と天皇 203 日本列島には複数の国家があった 204 天皇家の危機 208 権威と権力 213 大転換期 216

あとがき 223


続・日本の歴史をよみなおす

はじめに 227

第一章 日本の社会は農業社会か
百姓は農民か 231 奥能登の時国家 234 廻船を営む百姓と頭振(水呑) 242 村とされた都市 247 水田に賦課された租税 257 襖下張り文書の世界 262

第二章 海からみた日本列島
日本は孤立した島国か 269 縄文文化 273 弥生文化 277 西と東の文化の差 281 古墳時代 284 周囲の地域との交流関係 289 「日本国」の誕生 295 「日本国」の範囲 299 海の交通と租税の請負 305 金融業者のネットワーク 310 諸地域での都市の成立 315

第三章 荘園・公領の世界
荘園公領制 321 塩の荘園、弓削島荘 323 鉄・紙・漆の荘園、新見荘 326 銭の流入 332 請負代官の業務 337 山臥の代官 341

第四章 悪党・海賊と商人・金融業者
悪党と海賊 345 「悪」とは何か 350 一遍の教え---都市的な宗教 356 貿易商人、事業家としての勧進上人 359 村と町の形成 363 海の慣習法 366

第五章 日本の社会を考えなおす
「農人」という語 371 「重商主義」と「農本主義」の対決 376 新しい歴史像 379 飢饉はなぜおきたのか 382 封建社会とはなにか 387 西園寺家の所領 391 海上交通への領主の関心 395 「重商主義」の潮流 399

あとがき 407




 さらに日本の文字の普及度ですが、これは私たちが予想しているよりずっと高い。いまも農村や漁村の旧家を訪ねてみますと、かならず古文書があり、しかもそうした旧家はいろいろな書物を持っております。その書物は、たとえば『農業全書』であったり、儒学の書物であったりしますが、女性の教養のための書物も意外に多く見出すことができます。女性の識字率も、たしかに男性に比べれば相対的には低いと思いますが、けっして軽視できない高さを持っていたと考えられます。
 旅行家として有名な菅江真澄は、あちこちの旅行先で泊った家で、和歌の会などをひらいていますが、その会に真澄を迎えた家の主の夫人が出てきて一緒に歌を詠み合っています。村のなかの主だった家、名主、庄屋、あるいは組頭の人びとは、女性をふくめて確実に文字を知り、用いることができたことは間違いないといってよいと思います。江戸時代後期の識字率は五〇〜六〇%まであったという人もいますが、平均して四〇%ぐらいまでは字を識っていたといわれています。
 とくに都会−−町の識字率が非常に高かったことは、メーチニコフの『回想の明治維新』(岩波文庫)のなかに記されています。彼は明治七、八年ごろに日本に滞在したロシア人ですが、横浜で、人力車夫、馬の別当、お茶屋さんで使われている娘さんなどが、暇さえあれば、懐から小さな冊子を出して本を読んでいるのを見て、非常にびっくりしています。メーチニコフは、ラテン系の諸国およびわがロシアに比べれば、日本人のほうがはるかに識字率が高いといっております。これは注目すべきことで、日本の前近代社会を考える場合に、あるいは近代以後の社会の問題を考える場合にも、度外視できない重要な事実だとおもいます。(p21-22)




 譲状は、財産を譲るときに作られる中世独特の文章で、江戸時代になると譲状はほとんど消えてしまいます。まったくないわけではないのでりが、ほとんど見られません。なぜ譲状が書かれなくなるのかということも、じつはあまりはっきりとは解明されていないので、きちんと考えなくてはいけないのですが、中世に広く作られた譲状は、平仮名が非常
に多いのです。
 なぜ譲状が平仮名で書かれたかということも、よくわかっていないのですが、推論をしてみると、譲状は自筆が重んじられるということがひとつあると思います。これは文書の普及度とも関係することですが、譲状を多く書いた侍クラスの人たちは、鎌倉時代には平仮名は確実に書けるようになっていますので、おのずと平仮名で書かれたという考え方がひとつありうると思います。
 それから当時、譲状が必要だったのは、ある財産を譲与した際、当事者の関係だけでは譲与は成り立たないわけで、いまのように登記によって公的な機関が認知してくれるのでもありません。当事者周辺の、ある範囲の社会が認知してくれなくては譲与の行為は成立しない。とすると、その範囲の人たちが譲状を読み、理解できなくては、文書を書いた意味がないことになります。
 譲状が平仮名で書かれたのは、そのような理由があったのかもしれません。いずれにせよ、譲状には平仮名が多いことは事実で、平仮名はこうした私的な文書群に用いられはじめます。
 さらに中世の文書は、公的な文書が、書状の様式を持つような方向で展開していきます。古代以来の公的な文書は、書状のような形の宛名は書かないのですが、書状と同じように、日付と差し出し者、文書のいちばん終わりに受け取るがわの名前を書く、書札様文書が非常に広く使われるようになっていきます。
 たとえば地位の高い人の意志を、その家臣が奉って、相手の人に仕えている人にあてて文書を書く、奉書といわれる文書が非常に広く用いられたのです。天皇の綸旨、院の院宣、三位以上の人の御教書は、みなそういう形態の文書です。
 そうなると、おのずと公的な文書にも、平仮名が混入してくる場合がでてきます。それは、京都や鎌倉などの政治の中心ではなく各地域ではじまり、身分的なクラスでいうと、現地に密着した地頭や預所などの出す公文書に、平仮名がまじりはじめます。
 それから逆に、荘園の現地の代官などから、京都、鎌倉に送る報告書、注進状、百姓がいろいろ問題について訴えごとをするときの申状などには、平仮名が比較的早くからまじりはじめます。こういう文書が非常にふえてきたことが、平仮名まじりの文書の増加の基調になった動きということができます。
 それが爆発的にふえるのは室町時代になってからで、十三世紀の後半から、その徴候は見えはじめますけれども、十四世紀をこえて十五世紀にはいりますと、平仮名交じりの文章が圧倒的になってくる。現状残っている文章で見ましても、備中国新見荘関係の文章のうち七〇〜八〇%は平仮名まじりの文章なのです。
 文書の量自体がこのころには非常にふえてきますし、そのなかで平仮名まじりの文書が、このようにふえてくるということを考えますと、十四、五世紀が、日本の社会における文字の普及の上で、きわめて重要な画期であったことはまず間違いないと思うのです。
 ほぼ鎌倉時代の後期から室町時代にかけて、侍クラスの下層まで平仮名まじりの文書は書けるようになっていることは確実ですが、室町時代の村の大名主だった百姓は、だいたい文字が書けたと考えてよいと思います。
 女性も同様なので、御家人、非御家人などのような侍クラスの人の妻や娘は、平仮名の書状を書いています。百姓の上層の女性が文字を書いた事例も、畿内に近い地域では確認できますし、室町時代になると、備中国新見荘の”たまがき”という名の女性の見事な書状は非常に有名です。
 この荘園の代官をしていた僧侶に仕えていた女性で、もちろん身分の高い女性ではありません。遊女かもしれないという人もいますが、この僧侶が殺されたあとで「たまがき」は綿々たる思いをじつに見事な平仮名の文字で書いて、東寺に送ってきたのです。このように女性への文字の普及度も、男性と並行してすすんでいたといってよいかと思います。
 江戸時代は、このような庶民への普及を前提として、国家体制ができ上がっています。江戸幕府は当初から、町や村人たちの中に文字がつかえる人がいることを前捉にした体制だといってよいと思います。この国家はそのような点で、おそらく世界の中でも非常に特異な国家だと思いますけれども、それはこのような、文字の人民への普及度の高さに応ずる問題だと思うのです。
 このような文字の普及の過程で、非常に重要な問題だと思いますのは、鎌倉時代までの文書は、見ていて非常に気持がよいというか、笠松宏至さんのことばをかりると「みやびた」ところがある。これは貴族たちの書いたものだけではなく、侍や百姓の書いた文書でもそうなのです。
 ところが南北朝をこえて室町時代になりますと、文書はきわめて数が多くなるのですが、鎌倉時代以前に比べると文字に品がなくなります。しかも、大変に読みづらくなる。そのいちばんよい例は、広島県の福山市にある草戸千軒町遺跡という中世の町の遺跡、川底に町が沈んでしまったという有名な遺跡ですが、そこからたくさんでてきた木簡です。
 この木簡は、最近出た長屋王の邸宅跡の木簡のように立派なものではなくて、木を削ったものに走り書きがしてあるものです。少し前までは魚屋さんで、魚の値段を経木などに書いていましたが、あのようなものをお考えいただければよい。ちょっとした取引のときに、そうした木片にサッと書いたと思われるものが多いのですが、これが読めないんです。じつに読みにくい。文字にたいする社会の感覚が、鎌倉時代とは大きく変わってきたのではないかと思います。
 鎌倉時代までの人びとは、文字にたいしてある畏敬の感情をもっていたと思うので、それが文字そのものの美しさにつなかっていたのだと考えられますが、そうした意識はなお生きていたとしても、文字を使う人にとって、それはきわめて実用的なものになってきた。そこにこうした変化がおこったのだといえると思いますが、村や町ができていくことと、このような文字の普及、その実用化とは深いかかわりがある。
 草戸千軒町遺跡の木簡は、帳簿の源流だと石井進さんがいっていますが、まさしくそうで、おそくとも戦国期にはいるころには、村や町の帳簿が独自に作られるようになってきます。そして村や町の人びとは、支配者である領主向けの帳簿と、村や町の内部の帳簿との使い分けをやっていたことが明らかになっており、戦国時代には、支配者の表の帳簿とちがう、裏帳簿を村や町の人たちはつくっていたのです。領主が賦課してきた年貢を、村は独自に村の百姓に分担させているのですが、そのための帳簿を村は作成している。そしてそこまでは領主もふみこんでこないのです。
 これは、江戸時代でも同様で、村請制と言われて、村は自治的に年貢を請負っているのですが、こういう体制は、文字と数字を百姓たち自身が使えなくては成立しえないわけです。このような意味で、村の成立と文字の普及は不可分の関係にあると思います。町にしてもまったく同様で、村以上に多くの人びとが数字、文字を駆使し、それなりの自治を保
っていたのです。(p33-39)




 勝俣さんは、虹の立つところに市を立てるのは、日本だけではなくて、ほかの民族にもそういう慣習があり、それは虹が、あの世とこの世、神の世界と俗界とのかけ橋なので、そこでは交易をおこなって神を喜ばさなくてはいけないという観念があっだのではないか、といっておられます。そしてこれによってもわかるように市場は、神の世界と人間の世界、聖なる世界と俗界との境に設定される、と指摘しておられます。
 これは私もまったく同感で、実際、日本の社会では、河原、川の中洲、あるいは海と陸との境である浜、山と平地の境目である坂などに市が立つのが普通です。このように市の立つ場は独特な意味をもった場なのですが、そうして開かれた市聖なる世界、神の世界につながる場であると考えられてい
 そこにはいると、モノも人も世俗の縁から切れてしまう。つまり「無縁」の状態になるのではないかと思うので、そうなった時にはじめて、モノとモノとを、まさにモノそのものとして交換することが、可能になるわけです。いいかえれば、市の場では、モノにせよ人にせよ、いったん、神の世界のものにしてしまう。また別のいい方をすれば、だれのものでもないものにしてしまう。そのうえでモノとモノの交換がおこなわれるのではないかと思うのです。
 どこの社会でも、市場の本来的な原理はたぶん同じだろうと思います。ですから、市場では俗界の人と人との関係も切れてしまうので、そこは、「歌垣」の場になります。妻も夫も俗界の縁が切れるので、一人の女、一人の男として自由に交渉が出来る場として、神の祭の場などのあったことがよく知られていますが、市場も同様だったようです。日常の世界、俗界から、モノも人も縁が切れるという状態ができて、はじめて商品の交換が可能だったのではないかと考えられるわけです。
 このように世俗の縁から切れた状態が市場と交易においてあらわれるということは、近代の商品交換、市場原理の原点といってもよいので、かなり重要な問題がそこから出てくるのではないかと思いますが、中世のある時期までの交易はその上うなかたちでおこなわれていたのです。(p58-60)




聖別から卑賤視へ

 さて、また「童名」の問題にもどりますが、「丸」をつけた名前は、いろいろなものに付けられています。鷹や犬のような動物にも「丸」が付けられているし、鎧や兜、武器にも、「胴丸」などということばもありますけれども、よく「丸」をつけた名前が見られます。また笛、笙、箪築のような楽器も、何々丸という名前を持っているし、船にも「丸」が付けられます。
 これはなぜなのだろうかという問題について、いままでも議論が行われています。愛玩物だから「丸」をつけたという見方もありますし、「丸」のような童名を付ける人は、「下人」ーー奴婢であるという説がありますが、私はそれでは説明しきれないのではないかと思っています。
 むしろいまあげた「丸」をつけるものは、みないわば聖俗の境界にあるものであることに注意する必要がある。鷹や犬などはまさしくそういってよい動物だと思いますし、楽器も同様です。当時の音の世界は、神仏との関係でとらえられており、神仏を呼び出し、また神仏を喜ばせるために用いられているわけで、楽器はまさしく神仏の世界と俗界を媒介するものだと思います。
 船にしても同様で、大海に乗り出したときに人間がいのちを託すものなので、そこになんらかの呪的な力を与えたいという気持がおこるのは当然だと思いますし、戦場で命を託する刀や鎧にしても同じ意味があると思います。こうしたものになぜ童名がつけられたのかということは、童ーー子どもそのものに対するこの時期の社会の見方と深いかかわりがあり、童自身が、聖俗の境界にある特異な存在と考えられていたのです。実際、平安時代末に、ある童が「悪人」を指名すると、上皇が本気で検非違使庁に命じて、指名された人を捕まえさせるなどということをやっている。こういうことが記録に残っているところからみて、のちに「七歳までは神のうち」などといわれるのも、その流れをくんでいると思いますが、子どものいうことは神の意思を体現していると考えられていた時期があっだのではないかと思います。
 聖俗の境界的な人や物、動物に童名を付けるという習慣は、このことにつながると私は考えております。ですから、童名をつけている人についても、中世の前期までは、聖別された一面があったといってよいと思うのです。(p114-116)




 このように南北朝時代までの女性は、当時の荘園・公領の中のあらゆる社会的な活動分野に姿を現しており、しかも、国衙や東寺の支配制度の中で、公式の職に任命され、自らの名前で所領を保持して活発に動いていたことになります。
 これは、別の面からも確認することができます。若狭国の一宮、二宮にはその禰宜の家の南北朝のころにつくられた系図が残っておりますが、その系図は男系だけではなくて、女系までを非常に細かく追究しているのです。ふつう見られる系図は男系だけを書いているのですが、この系図は双系系図、つまり、男系と女系双方を追究した系図なのです。ですから、この系図には、禰宜の牟久氏だけでなく、女性の夫となった多田氏や和久利氏など、若狭国の多くの侍クラスの人びとの家の系図が、同じ系図のなかに記されることになっています。
 若狭については、とくに女系が強かったともいえるかもしれませんし、太良荘の場合には荘園の中の非常に細かいことまでわかる史料がたくさん残っているため、このような女性の活動がよくわかるので、他の荘園では、これほど史料は細かくは残っていません。ですからすぐに一般化はできないのかもしれませんが、私は少なくとも西日本においては太良荘とほぼ同様な状況があったと考えてよいと思っています。
 竹内理三さんの『鎌倉遺文』がほぽ完成しましたので、いまは鎌倉時代の文書のすべてを活字で見られるようになっていますが、それによって田畠、屋敷地(屋地)の譲状、売券ー売買証文の差出人や充名を調べてみますと、女性が相当の比率で現れてくるのです。
このことは統計的にも確認されていますので、女性がさきほど太良荘のような所領を持ち、それを譲与、売買することができたことは間違いありません。これは法令の上からも確認できます。
 ところが室町時代になると、土地財産、所領については女性の権利が弱くなり、江戸時代には女性が田畠を持つ権利は正式にはなくなってしまいます。しかし動産については、女性の権利は依然として保持されており、女性の嫁入り道具を夫が質に入れることは、女性の側から男を離婚できる大きな理由になりうるということが、さきほどの高木さんの本には詳しく書かれています。女性は、嫁入り道具などの動産については、江戸時代には財産権を持っていたわけで、フロイスの記述はここでも事実としてはっきり裏付けられたことになります。
 また、すでに指摘されていることでもあり、『増補無縁・公界・楽』のなかでも少し触れておいたことですが、屋敷や屋敷地の売買、譲与の当事者、あるいは所持者として女性が現れてくる比率は、田畠の場合に比べてかなり高いことも確認されています。たとえば、志摩国泊浦(鳥羽)のちかくの江向浦の、鎌倉末期に作られた在家の検注帳が醍醐寺に残っていますが、それを見ると在家の正式の持ち主として、女性の名前が非常にたくさん出てきます。(p162-164)
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