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南アジア史 1(書評1)
評価:
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山川出版社
¥ 6,264
(2007-06)
コメント:歴史の専門書につき、初心者にはすこし難しいかもしれないが、研究論文ほど難解でもない。「古代インドの歴史をがっつり勉強したい!」と言う人には格好の教科書になるかもしれない。

「古代インド文化史について詳細な文献を教えていただけません?」と北海道大学院文学研究科の細田典明先生に聞いて、紹介してもらった本。まちがいなく、2015年時点で第一級の古代インド史編纂書だ。

圧巻なのは巻末にある「年表」と「参考文献」の一覧。
特に参考文献は古代インド史にまつわる数百冊の和文書・英文書を網羅し、カテゴリーごとに紹介しているので、「もっと古代インドの◯◯について知りたい!」という人の心を鷲掴みにする。この参考文献一覧だけでも、¥5,800分の価値があるだろう。ぼくもこの参考文献から、いくつか有益な情報を得られた。

ぼくの興味関心のある十六王国時代の古代インド史については中村元の「古代インド 上」が泰斗だったが、中村元のそれが文献学の域から脱し得なかったのにたいして、本作は考古学的視点から時代考証をおこなっており、その分、文化史を把握する上で精度が増したように感じる。
目次

序章 インド古代史と文化の諸相 山崎元一・小西正捷 3
 1 インド学と古代史研究 3
    インド学の成立  インド古代史研究の展開
 2 インド古代史の流れ 7
    考古学の成果  首長権から王権へ  王国から帝国へ  
    外来民族王朝と土着王朝  帝国の再現  中世初期国家の形成
 3インド文化史の解明 14
    古代文化のありかた  多様性の統一

第一章 考古学の成果 17
 1 南アジア最初の住人たち 小磯学 17
    猿人・原人の時代から定住まで  新石器文化―農耕と牧畜の開始
 2 インダス文明 近藤英夫 24
    文明の版図と存続年代  インダス文明の形成  インダス文明の成立  
    都市の規模と形態  支配者の姿と文明を動かした原理  
    交易と工芸  文明の衰退
 3 歴史時代 上杉彰紀 41
    インダス文明の衰退と地域文化の成立  地域間交流の活発化と地域文化の展開
    ガンジス川流域における都市の形成  都市文化の成熟と衰退

第二章 ヴェーダ時代の宗教・政治・社会 藤井正人 57
 1 ヴェーダ時代をどのようにとらえるか 57
    考古資料と言語資料  インダスからガンジスヘ 歴史学と文献学
 2 アーリヤ人の到来 60
    どこから来たのか  北メソポタミアのインド・アーリア人
    インド・アーリア人進入の状況
 3 前期ヴェーダ時代 65
    ヴェーダとは  『リグ・ヴェーダ』 『リグ・ヴェーダ』の宗教
    『リグ・ヴェーダ』の社会
 4 後期ヴェーダ時代 75
    祭式の体系化  王権儀礼  後期ヴェーダの宗教  後期ヴェーダの社会  
    つぎの時代へ

第三章 十六大国からマウリヤ帝国 山崎元一 91
 1 十六大国時代 91
    ガナ・サンガ国  マガダ王国  クル国とパンチャーラ国−−−王権の停滞  
    都市の発達と農耕社会
 2 マウリヤ帝国の成立 103
    アレクサンドロスの侵入とナンダ朝  マウリヤ朝の興起  
    アショーカ王とダルマの政治
 3 統治体制と社会・経済 110
    中央と属州  軍隊と行政組織  社会組織と農業生産  商業と経済統制
 4 マウリヤ帝国の滅亡 119

第四章 外来民族王朝の興亡 定方晟 126
 1 インド・ギリシア人 126
    インドの範囲と異民族の侵入  バクトリアとパルティアの独立  
    ギリシア人の南下  ギリシア人とインド文化
 2 サカ王朝・パフラヴァ王朝 133
    サカ族の南下  サカ族と仏教  
 3 クシャーナ王朝 138
    クシャーナ朝の系譜  カニシュカ王と宗教  ローマ世界との交流
    宗教界の新しい動き  西クシャトラパ  クシャーナ朝の終焉

第五章 グプタ朝の政治と社会 古井龍介 163
 1 グプタ朝の政治 163
    グプタ朝への視座  グプタ朝の起源とその台頭  グプタ勢力の拡大
    グプタ朝の繁栄  グプタ朝期の統治機構  危機と失地回復  
    グプタ朝の衰退と滅亡  政治システムの拡大
 2 グプタ期の経済 178
    都市における商業活動と貨幣経済  農業の拡大
 3 グプタ期の社会 181
    都市の社会  農村社会  ヴァルナとジャーティ 中世への転機

第六章 カナウジの帝国 三田昌彦 194
 1 ハルシャによる帝国建設 194
    フーナの侵入と北インドの分裂  プシュヤブーティ朝ハルシヤの帝国建設
    帝国の構造と特質  ハルシヤ以後
 2 プラティーハーラ朝とパーラ朝 202
    辺境からの帝国形成  カナウジ王位継承問題と北インドの覇権争い
    デーヴァパーラの反撃からプラティーハーラ朝最盛期ヘ  
    プラティーハーラ朝の衰退と地方王権の独立  八〜十世紀の国家
    六〜十世紀の地政的変化とその社会経済的背景

第七章 宗教・思想史の展聞 宮元啓一 232
 1 ヴェーダの宗教 232
    ヴェーダ聖典とバラモン階層  ヴェーダの祭式と神々
 2 ウパニシャッドの思想 235
    ウパニシャッドとは  宇宙と自己の真相とは  最初期の輪廻説
 3 仏教とジャイナ教の成立 241
    出家、沙門の大量出現  仏教の誕生  ジャイナ教の出現
 4 ヒンドゥー教の成立 247
    ヴェーダの宗教からヒンドゥー教へ  二種類の習合パターン
    ヒンドゥー教徒の条件
 5 ヒンドゥー教の哲学 254
    哲学と学派  六派哲学
 6 大乗仏教の成立と展開 256    
    大乗仏教の成立  大乗仏教の特徴  大乗仏教の展開

第八章 インド古代美術史論 宮治昭 265
 1 古代初期の美術と前期石窟
    三つの視点  マウリヤ朝からシュンガ朝の美術  仏教説話図と石窟寺院
 2 ガンダーラとマトゥラーの美術 271
    北西インドとガンダーラの歴史  マトゥラーの位置と歴史  
    仏像・ジナ像・ヤクシー女神
 3 南インドの仏教美術 278
    南インドの仏教遺跡とアマラーヴァティー大塔  
    南インドの仏像とナーガールジュナコンダの美術
 4 グプタ調の美術
    グプタ様式の成立  マトゥラーとサールナートの彫刻  
    グプタ後期のヒンドゥー教彫刻
 5 ヴァーカータカ朝の美術と後期石窟
    ヴァーカータカ朝の遺跡と彫刻  アジャンター石窟と壁画
    後期の仏教石窟とヒンドゥー教石窟

第九章 文学史の流れ 横地優子 294
 1 叙事詩 294
    二大叙事詩の批判校訂版  叙事詩の古層  英雄詩から倫理・信仰の書へ
    『マハーバーラタ』 『ラーマーヤナ』 『マハーバーラタ』から「プラーナ」へ
 2 説話文学 304
    『大説話』の成立  動物説話の流布
 3 「カーヴィヤ」とその展開 307
    「カーヴィヤ」とは  小詩と大詩  古典劇とその戯曲  
    カーヴィヤの形成期  −−−クシャーナ期からグプタ期へ  
    成熟期としての六〜八世紀  中世文学の世界へ

第十章 インドの科学の歴史 矢野道雄 318
 1 科学の萌芽 318
    呪術と医学  祭壇の幾何学
 2 体系化の時代 321
    天文学  ナクシャトラと太陰占星術  医学の体系化
 3 インドにおける科学の確立 327
    西方からの科学の導入  アーリヤバタ  ヴァラーハミヒラ  
    アーリヤバタ以後  インド科学と外来の科学

▶補 説◀
 1 インダス文字の解読 辛島昇 49
 2 インド考古学を担った人びと 小西正捷 52
 3 ダルマ文献の成立 渡瀬信之 85
 4 仏滅年代論 山崎元一 122
 5 アショーカ王碑文とその文字 山崎元一 123
 6 タクシラとマトゥラー 小谷仲男 153
 7 陸路による東西交流 小谷仲男 157
 8 『マヌ法典』の成立とその後 山崎利男 188
 9 サーマンタ 三田昌彦 215
 10 「ラージプート」の出現と起源伝承 三田昌彦 218
 11 古代から中世前期への展開をめぐる歴史観 三田昌彦 221
 12 法顕・玄奘・義浄 山崎利男 225
 13 ジャイナ教史 宮治昭作 260
 14 『バガヴァッドーギーター』とバクティ 宮元啓一 262
 15 仏像の起源 宮治昭 291
 16 インドの暦 矢野道雄 336

付  録
  索引(人名索引  事項索引 地名索引) 2
  年表 30
  参考文献 56
  系図 94  
  南アジア諸国図 106




この二種の土器の広がりに示されるのは、ガンジス平原における地域間交流の活発化という現象である。両者は製作技術を違えるが、ともに皿と鉢を基本とする食膳具からなり、両者が共通する器種構成を有するという点において、前二千年紀後半の段階で一定の関係を有していたであろうことが推測できる。この両者の関係は前一千年紀前半になってより具体的になる。
 この時期には彩文灰色土器の分布域がガンジス川中上流域に広がり、黒縁赤色土器の分布域と一部重複するようになるが、両者のあいだで共通する形の土器がつくられるようになる。このことは、本来異なる製作技術を有する異なった伝統の土器であったのが、この時期に接触・交渉を深めるなかで、相互に影響を与えるようになったことを示している。
 前一千年紀中頃になると、ガンジス平原東半部において北方黒色磨研土器が出現する。これは極めて丁寧につくられた薄手の土器で、黒光りする表面を特徴としている。ガンジス平原束半部にこの土器が広がることによって、ガンジス平原は西の彩文灰色土器と、東の北方黒色磨研土器の分布圈に分けられることとなる(図11)。
 こうした土器の地域性が消失し始めるのが、前四〜前三世紀頃のことである。考古学のうえでは「北方黒色磨研土器後期」段階と呼ばれ、歴史的にはナンダ朝マガダ国による北インドの統一からマウリヤ朝の成立にかけての時期に相当する。この時期には北方黒色磨研土器が北インド東半部から西半部、さらには北西インド、東インド、中央インド、西インドといった周辺地域へと拡散する。彩文灰色土器は消滅するが、その器形はこの時期の北方黒色磨研土器のなかに取り込まれており、土器の生産体制が北インド全体で再編された状況を示している。
 また、この時期には、以前の土器の地域性を継承するかたちでガンジス平原の東西に異なる様式の土偶が出現するが、前二世紀後半頃までには北インド全域に共通する土偶様式へと収斂され、土器と同じように、北インドの周辺地域にも広がっていく。
 このように、前二千年紀後半から前一千年紀後半にかけての北インドでは、大きく東西に分かれるかたちで土器・土偶に地域性があらわれ、地域間交流のもとで地域性が消失して北インドを統一する物質文化のスタイルが形成されていく過程を読み取ることができる。
 また、前一千年紀の前半には鉄器が普及するようになるが、その背景にはアラーワリー山脈からヴィンディヤ山脈にかけてのいわゆるガンジス平原周縁部からの鉄鉱資源の安定的供給の確保が推測される。沖積平野であるガンジス平原ではこうした天然資源は乏しく、周縁の山脈・高原地域との関係が重要であった。こうしたガンジス平原と周縁地域との関係は、考古学的にはビーズの製作に用いられた貴石にも見ることができる。

ガンジス川流域における都市の形成

 前述のように、前二千年紀後半以降の北インド社会は地域間交流と地域統合によって特徴づけられるが、それはどういった社会の背景を示しているのだろうか。
 仏典などの文献史料によると、前六〜前四世紀頃の南アジアには十六大国と呼ばれる国家群が北西インドから北インド、中央インドにかけて存在していたことが知られている。それぞれの国には都がおかれ、商人たちが活躍していた様子が描かれている。遺跡の発掘調査によると、前六〜前五世紀頃には都市あるいは都市的な様相を帯びた大規模な集落が北インドに存在していた可能性が高い。遅くとも前三世紀ないし前二世紀には城壁を完備した巨大な都市が発達しており、前一千年紀中頃から後半にかけての北インド社会は都市化の時代であったことがわかる(図12)。
 ガンジス平原の都市は城壁によって囲まれており、その内部の面積は平均で一五〇〜二〇〇ヘクタールほどである。城壁の高さは五メートル以上あり、城壁の造営に多大な労働力を要することを踏まえれば、都市全体を一つのモニュメントとみなすことも可能である(図13)。
 現在のところ、都市内部の構造についてはほとんど明らかになっていない。城壁の輪郭によって示される都市全体の平面設計に規則性は見られず、むしろ不定形な平面形がめだつ。焼成レンガの建築用材としての本格的な導入・普及は前一世紀頃で、それに先行する時期には、粘土で壁体を築いた建物や木造建築が一般的であった。建物の平面形の把握が容易なレンガ積建物で見ると、前一世紀頃には方形ないし矩形の平面形を呈する建物が通りに対して直角に規則的に並ぶ、集住を原理とした空間構成が存在していたことがわかる。
 このように前一千年紀中頃から段階的に発展してきた北インドの都市および都市社会は、前項において見た地域間交流と地域統合の結果として出現したものである。地域間交流が活発化するなかで、その結節点としての拠点集落が形成され、その機能が極大化したところに都市が位置づけられる。拠点集落については、その実態は不明ながら、前一千年紀前半の段階には北インド各地に出現していたと推測される。
 拠点集落として地域を統合するための政治性の強化はやがて国家の都としての機能をもたらし、交易の中心としての経済性は、富の蓄積を促進することとなったと考えられる。前述の多大な労働力を投下しての城壁の造営は、まさに増大する政治性と経済力を背景としたものにほかならない。また、前五世紀頃までには出現していたと考えられる貨幣はこうした政治的・経済的統合という背景のもとに、統一の価値基準として導入されたと考えられる。(p44−48)




    3 前期ヴェーダ時代

ヴェーダとは

 前述のように、未解読のインダス文字資料を除いて南アジア最古の言語資料であるヴェーダ文献が、ヴェーダ時代に関するほとんど唯一の歴史資料である。「ヴェーダ」という語は「知識」を意味し、この時代のインドの独占的な知識階級である祭官たちが保持した宗教的知識、およびその知識を載せる聖典の総称である。インド・アーリヤ人は宗教儀礼における言葉を神聖視し、それが語法、文体、意味などのうえで正しく発せられたときには、発話された内容を実現させる力をもつと信じていた。そのような言葉、およびそのような言葉がもつ力のことを「ブラフマン」と呼び、祭官たちは、ブラフマンに関与する者という意味で「ブラーフマナ」(仏典で婆羅門と音訳)と称された。
 ヴェーダについて語る場合には、正典として統一的に編纂され伝承されたものとしてヴェーダをとらえる視点と、文献成立史のうえから生成過程にあるものとしてヴェーダをとらえる視点の二つがあり、両者を区別する必要がある。ヴェーダ文献の編纂は、ヴェーダ文献と密接にかかわる祭式の体系化と並行するかたちでおこなわれた。
 正典としてのヴェーダは、祭官の職務に応じて三種のヴェーダに分かれて編纂されている。神々への誉め言葉である讃歌を集めた『リグ・ヴェーダ』、祭場で歌われる歌詠を集めた『サーマ・ヴェーダ』、おもに供物を捧げるときに唱えられる祭詞を集めた『ヤジュル・ヴェーダ』の三種である。この三種のヴェーダは、ホートリ祭官、ウドガートリ祭官、アドヴァリユ祭官をそれぞれの筆頭とする異なる祭官集団によって別個に保持され伝承された。これらの三ヴェーダのほかに、呪文などを集めた『アタルヴア・ヴェーダ』が第四のヴェーダとして編纂された。このヴェーダは、三ヴェーダが関係する祭式(いわゆるシュラウタ祭式)とは異なる、呪術などの儀礼を担当した特殊な祭官族が保持したものである。王にかかわる呪文(例えば戦勝を祈願する呪文)などが含まれているために、後述する王付司祭官(プローヒタ)の職務との結びつきも見出される。以上の四種のヴェーダを基本部分として、さらにそのそれぞれに、ブラーフマナ(祭儀書)、ウパニシャッド(哲学書)、シュラウタ・スートラ(大規模祭式綱要書)、グリヒヤースートラ(家庭祭式綱要書)などの文献が付随する。
 このように、ヴェーダ文献は祭官集団ごとに別々に正典として編纂され、そのかたちで現在にまで伝承されている。しかし、編纂された正典としてのヴェーダの形態は、必ずしも文献の成立史にそったものではない。ヴェーダ文献の成立に関しては、それぞれが異なる年代に生成され、多くが長い期間をかけて増大してきたことは、文献によって言語や内容のうえで大きな差異を示し、また個々の文献内部にも新古層があることから明らかである。言語史や文献史の視点から、ヴェーダ文献の成立は通常、つぎの五段階に分けられる。
 (1)『リグ・ヴェーダ』
 (2)『アタルヴア・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』の祭文部分
 (3)『ヤジュル・ヴェーダ』の散文部分
 (4)ブラーフマナ、初期ウパニシャッド
 (5)ウパニシャッド、シュラウタ・スートラ、グリヒヤ・スートラ
 ヴェーダ成立史のこれらの五段階のうち、第一段階が歴史学でいう初期ヴェーダ時代に、第二段階以降が後期ヴェーダ時代に相当する。後期ヴェーダ時代にはヴェーダ成立史の複数の段階が含まれることから予想されるように、その期間にとくに宗教や思想の面で変遷が認められるが、社会や政治の面では前後の時代との差異に比べれば変化が少ないので、歴史学では一つの時代にまとめて記述されることが多い。

『リグ・ヴェーダ』
 最古のヴェーダ文献である『リグ・ヴェーダ』はI〇巻一〇二八篇からなり、総語数でホメロスの叙事詩に匹敵する大きな讃歌集である。第二巻から第七巻までは各祭官詩人の家系に属する家集であり、『リグ・ヴェーダ』の中核部分である。第一巻と第八巻は、編集の初期の段階にこの中核の前後に付加された部分であり、第九巻は、ソーマと呼ばれる興奮作用のある植物からしぼられた液が、祭場で濾される場面を主題とするソーマヘの讃歌を、家集から祭式用に抜き出してまとめたものである。第一〇巻は最後に加えられた『リグ・ヴェーダ』の最新層である。『リグ・ヴェーダ』のなかで詩人がカヴィ(見る者)、リシ(荒ぶれる者)、ヴィプラ(興奮にうち震える者)などと呼ばれているように、『リグ・ヴェーダ』の讃歌は、詩人が祭式の場で、精神が昂揚した興奮状態で観取したものと考えられていた(このような昂揚した状態での作詩の背後には、祭式の場でのソーマの摂取があったのかもしれない)。伝統的な作詩法や題材を用いながらも、讃歌はそのつど新たに歌い出された。讃歌が効力をもつためにはつねに「新しい歌」である必要があり、詩人は讃歌の新しさを強調してやまなかった。讃歌の内容は、神話などに基づいた神々の讃美が中心であるが、神々の神話を人びとに語り聞かせるものとはなっていない。基本的には、神々を喜ばせるために神々の姿や行為を言挙げするという形式がとられ、そのための特殊な動詞法が多用されている。祭官詩人の家系により作詩法、祭式、神々との関係などに特徴があることも、近年の研究で明らかになりつつある。
 『リグ・ヴェーダ』の成立年代に関しては、現在のところ、おおよその上限と下限が想定できるだけである。古代イランのアヴェスタ文献と、言語と内容のうえで極めて近い関係にあることから、『リグ・ヴェーダ』の原型は、おそらくインド・アーリヤ人がインドへ進入する以前にある程度形成されていたはずであり、詩作の材料のかなりの部分がインド・イラン共通時代に、一部はそれ以前にまで遡ると思われる。しかし、言及されている河川名などから(同じ名が異なる地域で用いられていることも考慮して)、『リグ・ヴェーダ』が現在のかたちで成立した時期は、アーリヤ人がインドへ入ったのち、場所は、北西インドのインダス川上流域を中心とするパンジャーブ地方であったと考えられている。『リグーヴェーダ』の成立年代の下限を示唆するものは、『リグ・ヴェーダ』に言及のない鉄器が、北西インドにあらわれる時期である。これらの上限と下限から、『リグ・ヴェーダ』はおそらく前一五〇〇年と前一〇〇〇年のあいだに成立したと思われる。
 『リグ・ヴェーダ』全一〇巻の構成からうかがわれるように、『リグ・ヴェーダ』の成立には年代の幅があり、中核部分である家集、中核の前後の付加部分、最新層、の三層に分けることができる。言語に関しては、これらの三層のあいだでは最新層の一部を除いては新旧の差はほとんど見られない。『リグ・ヴェーダ』の言語は、古代インド・アーリヤ語(サンスクリット語)の最古層に属し、古代イラン語、とくにアヴェスタ古層の言語と近く、印欧語の古い形態をよくとどめている。
 『リグ・ヴェーダ』には非印欧語からの借用語が散見されるが、その数は多く数える立場からでも四〇〇語弱(全語彙の約四%)であり、他の印欧語の場合に比べて決して多いとはいえない。個々の借用語に関して、取り入れられたのが、インド・アーリヤ人がインドに入る前なのか後なのかが問題となるが、古代イラン語に対応が見られない語には、インドに入ったあとに借用されたものが多く含まれると考えられる。そのような借用語には、地名、河川名、部族名などの固有名詞を除いて、農耕用語などの物質文化に関するものが多い。このことから、インドに進入したアーリヤ人が、早い時期から先住民の物質文化を取り入れていったことがわかる。ただ、それらの語がどの言語からどのような経路で借
用されたかについては不明な点が多い。
 借用語は、インドに進入し『リグ・ヴェーダ』をつくりつつあったアーリヤ人が、どのような言語と遭遇したのかを知る手がかりになる。当時の言語状況に関してとくに問題になるのは、現在、南インドで使われているドラヴィダ語が北インドにも広がっていたのか、またもしそうであれば、北インドのどのあたりに広がっていたのかである。ミヒャエル・ヴィッツェルは、『リグ・ヴェーダ』にあらわれる借用語を層ごとに精査して、第一層にはドラヴィダ語からの借用は見られず、第二層になってはじめて出現し、第三層ではその数が増えることを明らかにしている[Witzel 2005]。第一層に多くあらわれる非印欧語系統の言語に関して彼は、現在インド東部で使われているムンダ語に近い言語である可
能性を指摘し、ムンダ語系の言語が北西インドにまで広がっていたと予想している。ドラヴィダ語の北インドでの広がりとその時期の問題は、ドラヴィダ語が外部から北西インドを経由してインド半島部へ入ってきたのか、あるいはもともとインド半島部の言語であったのか、インド・アーリヤ人の進入以前の北西インドに展開していたインダス文明の言語であった可能性があるのか、などにかかわっているために、多くの議論を呼んでいる。

『リグ・ヴェーダ』の宗教
 『リグ・ヴェーダ』の神々は大きく二つの系統に分かれていた。一つは、「デーヴァ」と呼ばれる古くからの神々である。デーヴァは「天空」をあらわすディヴの派生語で「天空に属するもの」を意味している。天地、太陽、曙光、風、雨などの自然界の現象や要素を神格化したものや、インドラなどの英雄神、アグニ(火、とくに祭火)やソーマなどの祭式に関係するものがこの系統に属する。もう一つの系統は、「主」を意味する「アスラ」と呼ばれるものたちであり、インド・イラン共通時代に新しく登場した神々で、さまざまな社会制度を神格化したものである。ヴァルナ(王権の神格化)、ミトラ(契約)、アリヤマン(部族の慣習法)、バガ(配分)、アンシャ(分与)などで、アーディティヤたち(女神アディテズ〈無拘束〉の子どもたち)と総称される。アスラは『リグ・ヴェーダ』においてすでに畏怖の対象になっていたが、この
語はつぎの時代になると魔神を意味するようになる。デーヴァとアスラの二系統は、イランのアヴェスタにも継承されているが、そこでは、インドとは逆にデーヴァ(イランではダエーワ)たちが魔神となっている。
 アスラの系統に属する社会制度を神格化した神々があらわれたのは、インド・イラン共通時代である。これらの新しい神々が生まれた背景に、社会制度の分化と発達が想定される。あるいは、社会制度の神格化に他の文明(とくにメソポタミア)の影響を考える研究者もいる。インド・イラン人がインド亜大陸やイラン高原に入る前に、ともにバクトリア・マルギアナ考古複合の地域を通過したことを先に述べたが、その地で他の宗教の影響を受けた可能性がある。
 神々は天空・中空・地上の三界および水中を活動領域とし、人間世界(とくにその中心である祭式の場)を囲む存在としてしばしば表象されている。『リグ・ヴェーダ』の人びとは、人間と神々の世界の背後に、宇宙全体がそれに従って運動する理法・摂理を認識し、神々すらそれにそって活動していると考えた。そのような宇宙的な理法・摂理をリタ(原義は「ぴったりとあっていること」)という語で表現した。この語は、自然や天体の運動原理であると同時に、神々や人間の行動原理でもある普遍的な概念である。個々の神々や人間は、リタに従って行動するための具体的な規範としてヴラタと呼ばれる誓戒を堅持し、それを守らなければならないとされている。
 当時の祭式については、『リグ・ヴェーダ』から断片的な知識が得られるだけである。祭式の中心を担っていたのは、本来「祭火に献供する者」を意味するホートリと呼ばれる祭官であり、『リグ・ヴェーダ』の讃歌を歌い出した詩人たちも多くはこの祭官であったと思われる。ホートリは、のちのヴェーダ祭式では神々を祭場へ招くために讃歌を唱える祭官になり、献供はアドヴァリユという別の祭官の担当となるが、『リグ・ヴェーダ』の時代には、言葉と供物の両方にかかわっていた可能性が高い。前述のように、『リグ・ヴェーダ』の讃歌が神々を動かすために「新しい歌」として歌い出されていることは、讃歌が歌われた祭式が、定型化した祭文のみが用いられる後代のヴェーダ祭式とは異なって
いたことを示している。『リグ・ヴェーダ』の祭式は、詩人である祭官が、新しい言葉と新しい供物を神々に捧げることによって神々を喜ばせ、神々がそれに応えて人びとに恩恵を与えるという、神々と人間の交流・やりとりを中心としていた。祭式の種類に関しては、ソーマヘの讃歌が『リグ・ヴェーダ』第九巻に集められていることから、ソーマに関係する祭式が重要な位置を占めていたようである。ただし、後世の大規模な複合祭式としてのソーマ祭ではなく、ソーマという興奮作用のある植物をしぼり、濾し、神々に献供し、参加者で共飲することを中心とした比較的単純な祭式であったと思われる。その他、馬を犠牲獣とするアシュヴァメーダ(馬祀祭)を主題とした讃歌が見出される。この祭式は、次節で述べるように、つぎの時代に強大な王権を示威する大規模な王権儀礼へ発展するものである。
 この時代、人びとがどのような来世観をもっていたのかについては、『リグ・ヴェーダ』は多くを語っていない。最新層に、ヤマ(死者の世界の王)、祖霊、葬送(火葬)に関する讃歌が少数、見られるだけである。死後の理想世界としての天上界の観念もはっきりとはあらわれていない。つぎの時代に大きな問題となる祭式と来世との関係についても、『リグ・ヴェーダ』の最新層のヤマの讃歌(一〇・一四・七〜八)に、祭主が死後、ヤマとヴァルナの世界で現世での祭式と布施の功徳を享受するという言及が見られるだけである。

『リグ・ヴェーダ』の社会
 インドに大ってきたアーリヤ人は、さまざまな人間集団に各地で遭遇した。それらの集団には、彼らと言語的にも文化的にも異なる者たちもいれば、『リグ・ヴェーダ』のアーリヤ人とは別にインドに大ってきたインド・アーリヤ系あるいはイラン系の者たちもいたと思われる。『リグ・ヴェーダ』には、ダーサあるいはダスユと呼ばれる者たちが、アーリヤ人の敵として多くあらわれている。「祭式をおこなわない」「誓戒をもたない」「神々を求めない」などといわれ、アーリヤ人たちの宗教・文化をもたない集団として登場し、シャンバラなどの固有名もあげられている。ダーサやダスユたちは、プルと呼ばれる柵塁に拠って戦ったと語られている。プルは土石を盛り、木の柵をめぐらせた簡単な塁を意
味し、城砦のようなものではなかった。アーリヤ人が戦車に乗って戦ったのに対して、ダーサやダスユたちは柵塁をつくり、それに拠って戦ったのであろう。
 従来、彼らはアーリヤ人に敵対した先住民と解されてきたが、ダーサ、ダスユともイラン語に対応する語があり、そこでの意味と他の印欧語での対応語などから、イラン系の一種族を意味すると考えられるようになった。ただし、イラン系の種族だとしても、インド・アーリヤ人が彼らに接したのは、インドに入る前なのか後なのかという疑問は残る。また、かつて敵対していた種族名が、新たな敵あるいは敵一般に用いられている可能性もある。さらに、『リグ・ヴェーダ』に語られているダーサやダスユとの戦いに、インドに入ったアーリヤ人の現実がどれだけ映し出されているのかという文学上の問題がある。『リグ・ヴェーダ』の讃歌は、伝承された神話、インドヘ入る以前のかつての記憶、インド進入後の新しい現実が、蓄秘された古い詩句と新たな表現によって、巧みに混ぜ合わされて歌われているからである。
 アーリヤ人のあいだでも、インド進入の時期の違いなどによって部族同士の対立や抗争がつづいた。多くの部族が敵対と和合を繰り返しつつ、アーリヤ人以外の住民をも取り込みながら、いくつかの大部族ないし部族連合を形成していった。『リグ・ヴェーダ』にあらわれる「五種族」(パンチャ・ジャナ)という名称は、パンジャーブ地方の五つの大部族を総称したものである。五種族には、ヤドウ、トゥルヴァシヤ、アヌ、ドゥルフユと、やや遅れて登場したプールが含まれていた。やがてプール族と、もっとも遅くこの地にきたバラタ族が勢力を拡大して他の部族の上に立つにいたった。
 この状況で起こったのが、『リグ・ヴェーダ』に語られる「十王戦争」である。インダス川の支流パルシュニー川(現在のパキスタンのラーヴィー川)の河畔で、スダース王に率いられたバラタの軍勢と、プール族を中心とする十王の連合軍とのあいだでおこなわれた戦いである。この戦いに勝利したバラタ族は、統合へ向かい始めた当時の部族社会における覇権を確立し、サラスヴァティー川(かつてインダス川と平行して流れていた大河)の上流域を中心に、のちにはガンジス川上流域にまで勢力圏を拡大した。バラタ族の覇権の確立は、つぎの時代の幕開けとなるクル王国の成立へとつながるのである。『リグ・ヴェーダ』末期には、祭式や思想のうえでさまざまな新しい傾向があらわれたが、その背景にはこのような社会の変動があったと考えられる。なお、十王戦争はその後、長く語り継がれ、その他の戦争の記憶とかさなりながら、ついには大叙事詩『マハーバーラタ』の主題となるにいたる。
 アーリヤ人の移動や軍事行動には、馬車(戦車)が重要な働きをした。彼らが駆使したのは、二頭あるいはそれ以上の馬に引かれた二輪の車である。『リグ・ヴェーダ』には、車の各部分への詳細な言及があり(三・五三・一七〜二〇)、車に関するアーリヤ人の知識と技術の高さがうかがわれる。それ以外の技術に関しては、武器の製造のために冶金や鍛冶はある程度発達していたと思われるが、鉄器はまだ導入されてはいなかった。農作物では、主として大麦が栽培された。牧畜はインド進入後も、もっとも重要な生業であった。家畜としては牛がもっとも尊重され、アーリヤ人の生活の根幹にかかわっていたことは、社会活動の重要語のいくつかが、牛に関係する語に由来することからもわかる(例えばゴーパー〈牛守り〉という語が「番人」一般に用いられ、そこから「守る」の意味の動詞がっくられている)。
 アーリヤ人はインドに入ったのちも、牧畜を主に農業を従とした生活をしながら、季節ごとに移動と定住を繰り返していたと思われる。移動をおこなうときの、人びと、馬車、家畜などの集団は「グラーマ」と呼ばれた。この語はのちに「村」を意味するにいたるが、『リグ・ヴェーダ』ではもとの意味を保っている。農業生産のかなりの部分は、アーリヤ人の支配下に入った先住民を中心とした定住民が担った。彼らは生産労働や雑役に従事する者として、アーリヤ人の下に位置づけられた。この時代の社会単位である部族の内部に、移動と定住を繰り返す半牧半農の複数の集団と、主として農耕に従事する定住民が、支配関係で上下に位置しながら共存していたと思われる。部族の長は「王」(ラージャン)と呼ばれ、二般の部族民からは区別されていた。王に関する特別な儀礼が見られることから、その地位がある程度神聖化され、その授受や維持が部族社会の重要事となっていたことがわかる。また、王や部族のために祭式を執りおこなう祭官の地位は高く、王に仕えて戦勝の祈願などをおこなう王付司祭官(プローヒタ)もすでに存在した。このように社会の階層化は、比較的早くから進んだ。『リグ・ヴェーダ』最新層の有名な「原人讃歌」(一〇・九〇)に、犠牲として解体された原人の身体の各部分から、ブラーフマナ(バラモン、祭官)・ラージャニヤ(王族、のちのクシャトリヤ)・ヴァイシャ(庶民)・シュードラ(隷民)が生じたことが述べられている。『リグ・ヴェーダ』時代の末期には、すでに四つの社会階層の概念が成立していたと考えられる。
 『リグ・ヴェーダ』では、ダーサやダスユをアーリヤ人から区別するときに、「色」を意味し、のちに身分・階級をも意味するようになるヴァルナという語や、「黒い」という語が用いられている。これらの語は、従来の解釈のような「肌の色」という身体的な違いをあらわしたものではなく、「明るさ」対「暗さ」という観念的な対比に基づいたものであるという見解が出されている[Hock 1999]。

    4 後期ヴェーダ時代

祭式の体系化

 『リグ・ヴェーダ』についで、この時代の初めに、『アタルヴア・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』が成立した。『リグ・ヴェーダ』とその他のヴェーダのあいだには、言語と内容のうえで大きな相違が見られる。とくに、記述されている祭式に関して著しい違いがある。『リグ・ヴェーダ』の祭式が比較的単純なものであったのに対して、呪術などの別種の儀礼にかかわる『アタルヴア・ヴェーダ』を除いて他のヴェーダにあらわれている祭式は、統合され組織化された壮大な祭式体系である。この壮大な祭式体系は、シュラウタ祭式と総称され、のちに遅れて整備されるグリヒヤ祭式と呼ばれる家庭祭式とともに、ヴェーダ祭式全体を構成している。
 『サーマ・ヴェーダ』は、歌詠祭官によって歌われる歌詠を集めたものである。歌詞集と歌曲集からなり、歌詞はすべて『リグ・ヴェーダ』からとられている。歌詞集と歌曲集は、ともに学習用の前半部と祭式用の後半部に分かれ、後半部の歌詞と歌曲は、歌詠が歌われるソーマ祭の種別ごとに収録され配列されている。一方、『ヤジュル・ヴェーダ』は、祭式の実務をおこなう祭官が供物を祭火に投じるときなどに唱える祭詞を集めたものであり、この文献の構成そのものが、シュラウタ祭式の体系全体をあらわしている。そこではシュラウタ祭式の諸祭式が、中心の供物の違いにより穀物祭とソーマ祭の二つに分類され、それぞれに分類された祭式が、おおむね単純な基本となるものから、複雑なものや変形されたものへと整理されている。そして整理された祭式ごとに、使用される祭詞が祭式の手順にそって収録されている。
 このように、『サーマ・ヴェーダ』や『ヤジュル・ヴェーダ』の編纂は、ヴェーダ祭式の体系化と表裏一体でおこなわれた。確立されたシュラウタ祭式の体系は、『ヤジュル・ヴェーダ』の散文部分を含むブラーフマナ文献で具体的に記述され、つぎのシュラウタ・スートラで規定条文化された。その過程で部分的な修正や新機軸の採用を受けながらも、体系の骨組に関しては変更を加えられることなく保たれ、一部は現在にいたるまで存続している。
 祭式の体系化に並行して、部分的には先んじて、祭官の職務と組織も大きく変容した。先に述べたように、『リグ・ヴェーダ』時代の祭官は、職務と名称のうえでのちの時代の祭官と異なっていた。祭官職の分化も進んでいなかったようである。しかし、断片的ではあるが、『リグ・ヴェーダ』の最新層にのちの祭官組織と類似のものが言及されている。職務ごとに再編されつつあった祭官たちの各グループが、祭式の体系化を一気に進めると同時に、祭官職の制度化を完成させたと思われる。祭官たちは職務ごとに組織化されたが、おそらく主として地理的な要因から、複数の学派に分かれて集団を形成した。例えば、『ヤジュル・ヴェーダ』の祭官たちは、マイトラーヤニーヤ派、力夕派、タイッティリーヤ派、のちにあらわれたヴァージャサネーイン派などに分かれていた。この時代以降のヴェーダ文献は、すべて各祭官職の学派内部で作成され伝承されたものである。『リグ・ヴェーダ』を伝承する祭官集団も、複数の学派に分かれ、自分たちの祭官職に関する独自の祭式文献をつくりだしていった。学派間では深刻な対立は見られず、多くの知識を共有し、新しい知見を交換していたようである。また、職務の異なる複数の祭官が一つの祭式に合同であたるために、ヴェーダの違いを越えて学派間の交流もさかんにおこなわれ、このことがヴェーダ文献と祭式思想の発達に大きく寄与した。
 体系化されたシュラウタ祭式について概観すると、穀物を材料とする祭餅や粥を献供する穀物祭には、シュラウタ祭式用の三祭火を設置する祭火設置式、半月ごとの新満月祭、四ヵ月ごとの季節祭である四ヵ月祭、大麦・雑穀・米の収穫祭などがある。ソーマの搾り汁を献供するソーマ祭には、本祭が一日だけのアグニシュトーマ祭、こ盲間つづく十二日祭、一年にわたるガヴァーム・アヤナ祭、大きな鳥の形をした火壇を構築するアグニチャヤナ祭などが含まれる。ひとたび設置されたシュラウタ祭火は絶やされることなく、生涯、保持される。祭火に毎朝毎夕、牛乳などを献供するアグニホートラ祭が、もっとも簡単な祭式としてシュラウタ祭式に含まれる。
 基本的なソーマ祭であるアグニシュトーマ祭の内容は以下のとおりである。参加者は祭主(および妻)、四人の主要祭官、一二名の副祭官である。期間は五日間で、最初の四日間に祭場の設営、祭主の潔斎、予備祭などがおこなわれ、最後の五日目が本祭の日となる。本祭日の朝、ソーマがしぼられて濾されたあと、神格ごとに特別な器に汲み分けられる。ソーマの汲分けと一部かさなりあいながら、『サーマ・ヴェーダ』歌詠の合唱と『リグ・ヴェーダ』讃歌の讃誦が、一定の回数、交互に繰り返される。その繰返しごとに、神格ごとに汲み分けられたソーマが献供され、残りを祭主と祭官がまわし飲む。正午と夕方にも同様に、ソーマ搾りに始まる一連の儀礼がおこなわれる。すべての儀礼が終わったあと、参加者は沫浴をして身を清めて祭式を終了する。以上の基本的な行為のあいだに、動物犠牲などのさまざまな行為が挿入されている。

王権儀礼
 このような祭式の体系化のなかで注目すべきは、王権儀礼がソーマ祭のなかに編入されて、大規模な祭式として整備されたことである。そのような大規模な王権儀礼に、ラージャスーヤ、ヴァージャペーヤ、アシュヴァメーダがある。この三祭式は、おのおのの特徴となる儀式と、共通の儀礼要素として王に対する灌頂(頭に水をそそぐ儀式)を含みながらも、ソーマ祭としての形式を整えるために、以下のように、本来の王権儀式の内部にソーマ祭を取り込むか、ソーマ祭のなかに王権儀式の要素を加えるか、あるいはその両方の方法をとるかしている。
 ラージャスーヤは、灌頂と王座に就く儀礼を中心とした二年にわたる王即位式である。通常のソーマ祭で始まり、さまざまな穀物祭と四ヵ月祭が繰り返され、一年目の終りに、王となるものが、ラトニンと呼ばれる家臣や親族の家で火に献供する。二年目に、ソーマ祭の枠組のなかで、灌頂儀式が執りおこなわれる。灌頂ののち、王は戦車を走らせて、模擬的な襲撃と牛の獲得をおこなったあと、王座に就く。主要祭官とラトニンたちが四方から王を囲む。王は儀礼的な賽賭博に勝利したのち、ホートリ祭官による「シュナハーシェーパ物語」の朗誦を受ける。その後、ダシャペーヤというソーマ祭をおこなったあと、王は一年間(あるいはそれ以下)の誓戒に服し、その終了後に髪切の儀礼をおこなう。最後に通常のソーマ祭をおこなって祭式を終了する。
 ヴァージャペーヤは、祭式規定上は王族以外の者によってもおこなわれうるが、王によって挙行されることが多かったと思われるので、王権儀礼の一種と見なすことができる。祭主が参加する戦車競争を中心とした比較的短期間の祭式であり、支配権の獲得あるいは活性化を目的としたものと考えられる。この祭式は、先に説明したアグニシュトーマの本祭部分を拡大したソーマ祭の、正午のソーマ搾りに始まる一連の儀礼のあいだに、祭主の戦車競争、祭柱登り、灌頂を組み入れている。
 アシュヴァメーダは、馬の供犠を中心とした、強大な王権を示威する王権儀礼である。犠牲にされるべき馬が放たれて、一年間、王の軍勢に守られながら王の広大な支配域を自由に駆けまわる。それと並行して、ホートリ祭官による説話朗誦などの予備祭が一年にわたっておこなわれたあと、アグニチャヤナの扁形の大火壇が構築される。本祭として三日間、三種のソーマ祭が連続し、馬の供犠と王の潅頂が二日目のソーマ祭のなかでおこなわれる。
 このように、これらの王権儀礼は、おそらくは本来の比較的小さな三種の王権儀礼が、ソーマ祭と結合されて大型の祭式につくり変えられたものである。ヴェーダ祭式文献の編纂とヴェーダ祭式の体系化、そのなかでの大規模な王権儀礼の成立の背景に、そうしたものを必要とした体制や王権がこの時代の初め、あるいは直前に確立されたことが想定できる。それとともに大きな変化が、宗教と社会の両方で起こったことは間違いない。

後期ヴェーダの宗教
 祭式の体系化と祭官職の再編のなかで、ヴェーダ祭式の性質にも大きな変化が生じていた。『リグ・ヴェーダ』時代の祭式は、詩人である祭官が神々に新しい讃歌を歌い、供物を献じることによって神々を喜ばせて、人びとがその恩恵に与るという神々と人間との交流を中心としていた。それに対して後期ヴェーダの祭式では、祭官たちの言語的および身体的行為によって宇宙の諸存在を操作して、望ましい効果を生じさせようとする呪術的な性格が前面にあらわれている。そこでは、言葉は、讃歌・歌詠・祭詞のすべてにおいて祭文として固定化されている。神々は、讃歌を嘉する個性ある存在ではなく、宇宙の構成要素として祭式による操作の対象となっている。
 このように祭式は、定まった行為により定まった効果を生み出すための機械的な一連の操作となった。行為の誤りは祭式全体を無効にするものと考えられたので、誤りをなおすさまざまな修復儀礼(蹟罪儀礼)が考案された。また、特殊な場合を除いて祭主と祭官の役割が完全に分離し、祭官の行為(祭式)によってもたらされた結果(果報)は祭主のみが受
け取り、祭官はその代わりに祭主から謝礼(布施)を受けるという関係が確立した。祭式の結果(果報)として期待されるものには、繁栄、長寿、子孫などさまざまなものがあったが、ソーマ祭に関しては、天上界への到達に一本化される方向に向かった。
 このような性格を有するにいたった祭式は、一方で、その後のヴェーダ文献のなかでさまざまな思想を展開させた。『ヤジュル・ヴェーダ』の散文部分を含むブラーフマナ文献は、個々の祭式行為を記述するとともに、その行為の由来や意義について神話的および思弁的な説明をおこなっている。祭式をめぐる思弁のなかでさまざまな思想が発達し、の
ちのウパニシャッドの哲学思想へと収斂していった。例えば、『リグ・ヴェーダ』の最新層二〇・九〇・一三〜一四、一〇・一六・三)に遡る、自然現象や諸神格などの宇宙の諸存在と、身体部位や生体諸機能などの人体の諸要素とが対応するという観念は、ブラーフマナの祭式思弁のなかで発達し、ウパニシャッドの宇宙存在と個体存在の同一性の思想へと展開した。
 哲学思想の生成とともに、それと表裏一体をなすものとしてこの時代に形成されたのが、輪廻思想である。古代インドにおける再生や転生の観念そのものの由来は明らかではないが、その観念が輪廻思想としてかたちを整える過程で、祭式をめぐる思想が関与していることは疑えない。なかでも、『リグ・ヴェーダ』の最新層にあらわれ始める、祭式を
おこなうことによって来世での生活の糧を蓄積するという考えは、現世での祭式と来世との関係について基本的な枠組を提供した。また、右に述べた宇宙の諸存在と人体の諸要素との対応の観念に基づいて、来世での身体を形成する思想が発達した。例えば、最初期のウパニシャッドには、死者が太陽などの宇宙の諸存在のもとにおかれていた、目などの身体諸要素を回収して、天上界における新たな身体を獲得するという思想が登場している(『ジャイミニーヤ・ウパニシャッド・ブラーフマナ』三・二〇〜二八)。これらをはじめとする来世や再生に関するさまざまな思想を経由して、初期ウパニシャッドの時代に輪廻思想が確立されたと考えられる。
 輪廻思想は、このように祭式思想の展開とともに形成されたが、祭式によって得られる天上界での生活が永遠ではなく、さらなる生の苦しみにつづいていることを人びとに教えることになった。輪廻思想が浸透するにともなって、祭式を中心とした価値体系への不信感が生まれ、やがてつぎの二つの価値が対立することになる。家庭と社会において、祭式を実行し、子孫をもうけることに価値をおく伝統的なヴェーダの価値観と、新たに台頭してきた、祭式を軽視もしくは否定し、家庭と社会から出ることに価値をおく価値観の対立である。後者は、多くが禁欲苦行あるいは出家遊行の方向へ向かうため、禁欲苦行主義あるいは出家遊行主義と称されている。この相反する二つの価値の対立は、すでに初期ウパニシャッドにその萌芽をあらわしている。例えば、初期ウパニシャッドの最大の哲学者であるヤージュニャヴァルキヤは、思想家としての華々しい活動の最後に、妻たちを捨て、出家遊行に向かったと伝えられている。この価値対立は、ヴェーダに対抗する新たな宗教運動へ展開し、つぎの時代における仏教やジャイナ教など新しい宗教の誕生へ向かう。

後期ヴェーダの社会
 これまで述べてきたヴェーダ祭式の変容、とくに祭式の体系化と大規模な王権儀礼の整備の背後には、それらをもたらした大きな社会変化があった。前述のように、『リグ・ヴェーダ』時代の末期、バラタ族が部族社会における覇権を獲得した。その時代のあと、『ヤジュル・ヴェーダ』などの文献が成立するまでのあいだは一種の暗黒時代であり、その間の状況を伝える資料はない。後期ヴェーダ時代の初めに、突然に、クルという名の王国があらわれる。クルの領土は、現在は消滅したサラスヴァティー川の本流とその支流であるドリシャドヴァティー川にはさまれた広大な平原で、現在のデリーの北西一五〇キロに位置している。この地は「クル族の土地」(クルークシェートラ)と呼ばれ、ヴェーダ時代以降、インド世界の精神的な中心として長く神聖視されてきた。大叙事詩『マハーバーラタ』の大戦争がおこなわれたといわれているのもこの土地である(ただし、物語の遠い原型である『リグ・ヴェーダ』時代の十王戦争はもっと西方でおこなわれた)。
 この時代の初期文献である『リグ・ヴェーダ』の補遺(五・一〇)に、パリクシット王の時代の豊かで平和なクル王国を歌った讃歌が見出される。パリクシットに始まる王統のもと、クルは北インドの中央部を支配する大国として勢力を拡大していった。クルと前時代のバラタとの関係は不明であるが、クルの王たちは、事実はどうであれ、自らの出自をバラタ族に帰していた。クルは東のガンジス川上流域に領土を広げ、やがてそこにパンチャーラという名の国が興った。クルとパンチャーラは宗教儀礼や婚姻のうえで密接な関係をもち、しばしば「クル・パンチャーラ」と一語で呼ばれた。両国の領域はバラモン文化の中心となり、王たちの庇護のもとでヴェーダ祭式文化は大きな発展と変化を遂げた。中心的なヴェーダ文献も、のちにガンジス川中流域以東で成立したものを除いて、ほとんどはクルあるいはパンチャーラの領域内で成立した。
 クルやパンチャーラには、領土全体を支配する王(ラージャン)と彼の一族である王族のもとに、王国を構成する各部族の長である、同じくラージャンと呼ばれる族長がいた。部族の内部には多くの集団(グラーマ。本来は「移動集団」、のちには「村」)があり、各集団の指揮者(グラーマニー)が民衆(ヴィシュ)を統率していた。人びとは家長を中心に大家族(クラ)でまとまって生活していた。王の系譜などから王の地位がおおむね世襲であったことが知られる。前の時代に比べて王権は強大なものになったが、王位の継承には、儀礼上ではあるが、王族や家臣の承認が必要であった。また、その地位は絶対的なものではなく、この時代のヴェーダ文献には、王位から廃されて追放された王に関する記述が見られる。
 王の家臣については、前述のラージャスーヤという王権儀礼にラトニンという名であらわれる王の家臣や親族たちが注目される。ラトニンには、家臣として王付司祭官、軍勢の指揮者、集団(隊列)の指揮者、使者、御者、肉切人、食物配分人、屠殺人、宴振り、大工、戦車作りなどが含まれる。これらの名のほとんどは、王とともに移動生活をしていた従者たちの古い職名に由来し、いくつかは、もとの意味を離れた侍従や徴税官などの官職名となっていたと思われる。
 家臣の筆頭にあげられている王付司祭官(プローヒタ)は、王のそばにいて王の宗教儀礼を担当するバラモンである。王付司祭官は、戦勝祈願などの王室儀礼を主として担当したが、王が主催するシュラウタ祭式にも関与した。シュラウタ祭式では、王付司祭官は多くの場合、祭主である王の横に座って祭式全体を監視し、他の祭官を指揮する、ブラフマン祭官とよばれる首席祭官の職務を担当した。このように王付司祭官は王の宗教儀礼全般を補佐し、王は王付司祭官を介して宗教儀礼をおこなうという図式ができていた。
 王と王付司祭官の関係に見られるように、王族(ラージャニヤ、のちにはクシャトリヤ)とバラモンたちは、当時の社会において強い結びつきをもっていた。『リグ・ヴェーダ』の最新層にあらわれた四つの階層は、この時代のヴェーダ文献で、バラモン(祭官)、クシャトリヤ(王侯・武人)、ヴァでシャ(庶民)、シュードラ(隷民)から成る四ヴァルナ(身分、階級)の制度として確立した。しかし、上位二階級の上下関係は、あくまでもバラモンの視点からのものであり、現実には、クシャトリヤは支配階級として、バラモンの宗教的権威と連携しながら社会の最上位に位置していた。それに対して、人口の多数を占める民衆は社会の下位に位置づけられ、農耕をはじめとする生産労働に携わるヴァイシャと、雑役などに従事するシュードラに二分された。ただし、シュードラは、社会制度としての奴隷を意味するのではなく、アーリヤ社会の拡大につれて社会内部に取り込まれた外部集団や、それらとの混血などを、社会秩序のなかに位置づけるために社会の最下におかれた概念的な階層と考えられるべきである。
 当時の王室や王国の財政に関しては、ヴェーダ文献からはほとんど知ることができない。貢物(バリ)を集める比率について記述が見られることから、一種の徴税制度として民衆から貢物の徴収がおこなわれていたことが推測される。王や族長などのもとに集められた貢物は、祭式の執行やヴェーダの教授などのバラモンの活動に対して、布施や贈与として彼らに配分された。民衆の余剰生産が王を頂点とするクシャトリヤのもとに集められ、その一部がバラモンに再配分されるというシステムが、この時代を通じて維持されて、ヴェーダ祭式文化の安定的な基盤となった。
 産業に関して、この時代の初めに生じた大きな変化は、鉄器が導入されたことである。この時代初期のヴェーダ文献に鉄への言及がはじめてあらわれるが、考古学のうえからも、北インドに鉄器がはじめて登場するのはほぼ同時代である。北インドへの鉄器の導入はインド亜大陸の外部からなのか、あるいは内部からなのかについては、議論が分かれている。鉄器の導入は農具の改良をもたらし、農地の開墾を促して農業の生産量を増大させた。農作物としては、以前からの大麦のほか、ガンジス川流域では米がさかんに生産された。小麦の栽培が始まるのもこの時代である。大麦・雑穀・米の収穫に際しておこなわれたヴェーダの収穫祭は、この三種が主要穀物であった時代を反映している。その他の産業や技術もこの時代に大きな発展を遂げた。この時代の社会制度や物質文化に関しては、ヴェーダ文献の資料を網羅的に収集したヴィルヘルムーラウの一連の研究がある[Rau 1957]。
 このようにクル王国が成立し、勢力を拡大して、パンチャーラとともに北インド中部の広大な領域を支配した時代は、南アジア史のうえで重要な転換点になっている。クルとパンチャーラは、南アジアの国家形成史上、「初期国家」と呼びうるものである。これらの王国の成立にともなって、ヴェーダ祭式という宗教儀礼体系、四ヴァルナという身分制、王を頂点した統治組織など、その後のインド社会の基本的な枠組が形成された。

つぎの時代ヘ
 ヴェーダ祭式文化を基盤にした社会は、クル・パンチャーラの領域を越えて拡大し、この時代の後半には、ガンジス川中流域以東をもその文化圏に組み入れるにいたった。この時期のヴェーダ文献には、クル・パンチャーラの東の国としてコーサラやヴィデーハという国名が登場している。ヴェーダ祭式文化の束への拡大を物語る挿話が、後期のブラーフマナ文献に見出される(『シャタパタ・ブラーフマナ』一・四・一・一〇以下)。その物語によれば、ヴィデーガ・マーダヴァという名の王が祭火を保持していた。その祭火が王のもとを去り、サラスヴァティー川から東へ焼き進んでいった。王は王付司祭官とともに祭火を追っていき、サダーニーラー川(現在のビハール州西端を流れるガンダク川)にいたった。祭火はこの川を越えて焼き進むことがなかったので、かつてバラモンはこの川より東には住まなかった。しかし今では、祭式によって心地よい土地にされたので、多くのバラモンが居住しているという。この物語は、祭火に象徴されるヴェーダ祭式文化がクルの故地であるサラスヴァティー川から東へ拡大し、さらにサダーニーラー川を越えて現在の東イン
ドのビハールにまで広がっていったことを伝えている。
 ヴェーダ祭式文化は、東へ拡大するにともなって新たな展開を見せた。ヴェーダ文化の中心地から離れているために伝統的な祭式観から自由になり、祭式の再解釈が進められた。さらに新たな土地でさまざまな思想に接することによって、新しい思想潮流を生み出した。東の地域でこの時期に成立したヴェーダ文献には、この新しい勣きがはっきりとあらわれている。この東の地域は、つぎの時代に仏教をはじめとする新宗教が最初に展開した地域である。この地城に起こったヴェーダ祭式文化の新しい動きと、仏教などの新宗教の成立との関係についてはいまだ不明なことが多いが、この地域で成立した初期ウパニシャッドに、仏教に極めて近い思想があらわれていることは注目に値する。
 クル・クル・パンチャーラで確立された、ヴェーダ祭式文化を基盤とする社会体制が各地に広がるに従って、新興勢力の勃興とともに、旧来の政治勢力の分散化も起こった。クル・パンチャーラは、宗教的・文化的な面を除いて、北インドの中心としての地位をしだいに失っていった。この時代ののち、北インドでは一六の国が勢力を競い合ったことが仏教文献などに記されている。それらの国のなかには、クル、パンチャーラ、コーサラが含まれているが、新しくマガダという名の国が、ガンジス川中流から下流の南側に一大勢力として登場している。このマガダ国によって北インドの諸国が最終的に統合され、インド亜大陸にはじめて統一国家が誕生することになる。
 約一〇〇〇年にわたるヴェーダ時代のあいだに、南アジアは国家形成の道を着実に進んだ。『リグ・ヴェーダ』の部族社会から、『リグ・ヴェーダ』末期における部族社会の統合への動きとバラタ族による覇権の獲得、つぎの後期ヴェーダ時代初めのクル王国の成立とその後の拡大、それにつづく後期ヴェーダ時代後半のガンジス川中流域以東の新興勢力の勃興へと進展した。この長いヴェーダ時代のあと、南アジアは国家形成の最後の段階である統一国家に向かって、つぎの時代へ移行する。 藤井正人                                  

  ▶補説3◀ダルマ文献の成立−ダルマスートラから『マヌ法典』へ

ダルマスートラの成立
 ダルマスートラ、ダルマシャーストラなどのダルマ文献は、ヴェーダを奉じることをもって正統性を主張してきた人びとのあいだでの行動の規範書として編纂された。とりわけバラモン(ブラーフマナ)男子のライフスタイル、日常の振舞い、罪と清めについて整理し、それをもって人びと全体のモデルとすること、および刑罰権・裁判権を行使して社会秩序の維持を担う王の行動の準則を記述することがその主たる目的であった。その編纂はおよそ前六世紀頃から始まり、ダルマスートラ、スムリティ(狭義のダルマシャーストラ)をへて注釈書・綱要書(ニバンダ)へと引き継がれ、十九世紀半ばにその役割を終えることとなる。そしてその間、人びとの行動の準則と司法の部とはしだいに切り離され、十二世紀以降、後者は独立の法律書としての性格を強めていくこととなる(第五章補説8「『マヌ法典』の成立とその後」参照)。
 人が日々いかに行動するべきかについて整理されることとなったのはおよそ前六世紀頃とされるが、この動きの中心となったのは、ヴェーダ祭式を執行するバラモン集団によって形成されたヴェーダ学派であった。そこにおいては、祭式を執行するにふさわしいバラモン男子の振舞いと人生の送り方が重要な課題であった。ダルマスートラはこの課題に応えるものとして、バラモン男子に対して教授された。このことから、ダルマスートラはヴェーダ学派のなかで編纂されたであろうとみなされるが、しかし必ずしもダルマスートラのすべてがヴェーダ学派のなかで編纂されたわけでもないようである。ダルマスートラの叙述の背後に、ヴェーダ学派を超えた、もっと広い、社会そのもののあり方についての強い関心が働いていたことが注目される。この時期、ヴェーダ学派との関連を密にしながらも、ヴェーダーンガと総称される学識の専門化の動きがあり、なかでも文法学とダルマ学は独立の傾向が強かったようである。ダルマスートラはヴェーダ学派から独立した専門学派のなかで、社会そのもののあり方に関心を向けながら、社会の中枢であるバラモン男子と王の生き方を整理しようとした可能性がある。
 ダルマスートラの編纂者が社会秩序に関心をもっていたことの背景には、『リグ・ヴェーダ』以来のダルマについての思想的伝統が受け継がれていた事実がある。『リグ・ヴェーダ』において、太陽や月あるいは暁光といった大自然界の構成諸要素は、宇宙秩序リタのなかにおいて、それぞれに他からは不可侵な特有のポジション、特有の機能・行動様式、属性を有していることが強く観察され、そしてそのあり方を決定しているのは、リタから発せられ、リタと同化する潜勢力のダルマであると見なされた。ダルマは宇宙・大自然界の根本的な秩序原理、宇宙と大自然界に存在する一切のもののあり方を決定している力として位置づけられたのである。この思想は、その後、宇宙秩序の一環である人間界へと拡大されていく。しかし存在するものそれぞれの固有・特有を決定する原理としてのダルマが人間界に適用されるためには、社会において人びとが、特有のポジションと特有の機能をもつような社会状況が醸成されていることが条件であり、それには時間を要した。
 それでもダルマは、秩序の全体を支える原理として人間社会に持ち込まれていった。『リグ・ヴェーダ』につづくブラーフマナ文献の時代において、ダルマは、何よりも祭式のなかに発現し、祭式を媒介として人間界は秩序立てられると考えられた。ダルマの思想は『リグ・ヴェーダ』の思想家たちすなわち祭官グループによって展開された以上、このことに不思議はない。
 そしてつづく時代において、バラモンを頂点とする四ヴァルナ体制が整えられていくとともに、ダルマは、徐々に、人びとの社会秩序のなかでの特有のポジション、特有の社会機能・行動様式を決定する原理として適用される条件が整えられていった。
 一方この時期、ダルマスートラの成立に関して注目しなければならないのは、それまでの伝統的な生き方を根底から揺るがす一つの大きな社会的変化が生じたことである。禁欲苦行主義の台頭である。結婚、出産、社会的義務などを拒否する禁欲苦行主義は真っ向から伝統的生き方と対立するものであった。ダルマスートラは明らかにこの社会的変動の影響を受けたことを示している。ダルマスートラ中でときに激しく議論されるアーシュラマ(住期)論が注目される。
 アーシュラマ論とは、突き詰めれば、家長主義と禁欲主義のいずれが人生の送り方としてふさわしいかという論争である。ダルマスートラに言及される禁欲的生き方は、生涯を学生として送るか、林住して苦行生活を送るかあるいは住所を定めず遍歴生活を送るかであった。ダルマスートラはこの論争の結論として、学生生活を必修とし、それの修了後の家長としての生き方を第一と位置づけながらも、他の道を選択することを任意とした。
 しかしこの結論は苦渋の選択であった。禁欲主義をめぐる激しい論争は、家長の伝統を保持してきた祭式主義の世界が 紹それを真っ向から否定する禁欲主義の挑戦を受け、あらためて、生き方としてどうあるべきかを立て直す必要に迫られたことを知らしめる。
 ダルマスートラの編者たちは、たんにヴェーダ学派のバラモン男子の振舞いや作法を整理することだけにとどまれなかったであろう。人はその生涯をいかなるスタイルをとって送るべきか、そのスタイルのなかで日々の行動はいかにあるべきかをバラモン男子を他の人びとのモデルとして整理すること、加えて、伝統的社会秩序をいかに保持するかについて王の役割を提示することがダルマスートラの根本的な課題であった。そして幸いにもこの課題は、『リグ・ヴェーダ』以来のダルマ思想の伝統と直結しうるものであった。これがヴェーダ学派内であれ、その外にあったかもしれないダルマの専門学派においてであれ、どちらにおいても起こりうる作業内容であったと思われる。
 かくして、ヴァルナ体制の基本理念が打ち立てられた。人間集団はバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラの四つの身分集団(ヴァルナ)からなり、各ヴァルナは、固有の社会機能をもつとともに、他からは不可侵の特有のポジションをもって社会秩序のなかに位置づけられることとなった。バラモンはヴェーダの教授と祭式の執行、クシャトリヤは人民守護、ヴァイシャは経済活動、そしてシュードラは上位ヴァルナヘの奉仕を任務とすることが決定された。
ダルマスートラから『マヌ法典』ヘ
 ダルマスートラは、ヴェーダ学派のなか、あるいはグルマの専門学派において編纂されたにせよ、内容において大きく異なることなく、社会のエリート層を形成するバラモン男子の教育に活用された。このことはヴェーダ学派の地理的隔たりを克服することともなり、ヴェーダを奉じる正統世界を統一することに大きく寄与したと思われる。
 しかしながら、同一種類の内容を展開しながらそれぞれのダルマスートラがそれぞれにばらばらのスタイルをもつという体裁は、正統世界の権威ある規範書としての存在感を高めなかった。規範書としての圧倒的な存在感を示したのが、紀元前後の編纂とされる『マヌ法典』である。『マヌ法典』はダルマ文献の目的を高らかに官】言し、それに従って叙述を体系立て、文体も一新した。とりわけ『マヌ法典』とダルマスートラとの決定的違いは、行動の準則を叙述する本題に先立って冒頭に、世界創造を展開することであった。
 なにゆえに世界創造を語るのか。ダルマスートラの時代、すでに社会は四ヴァルナを中心としてそれぞれのヴァルナの社会的な役割の固定が理論立てられたが、そのことがあるべき社会の絶対的・先験的な秩序であるという認知はなかった。それを『マヌ法典』は実行したのである。第一章において、宇宙は創造主によって創造されたこと、創造主は自ら創造した世界の繁栄を願い、その担い手として四ヴァルナを創造し、それぞれに職務(カルマ)を割り当てたことが格調高く表明された。これによってはじめて、四ヴァルナ社会とその体制は創造主の神意に基づくものとして正当化されたのである。
 『マヌ法典』は、この基本的考え方のうえに立って、社会の全構成員のあり方を提示することを高らかに官言する。まず、バラモン男子の生涯の生き方、日々の行動の準則を説いて、それを社会全体のモデルとして位置づけた。これらについては前代のダルマスートラと内容的に大きな相違はないが、ただ一点、人の生涯の生き方として、まず、学生として正統世界の価値観を学び(学生期)、その後、結婚して家庭を築き、定められた義務を全うし(家長期)、そして孫に恵まれ髪に白いものを見たときには引退して、妻をともなうなり単独なりで森に大って禁欲苦行の生活に入り(林住期)、さらには定住生活を捨てて遍歴生活に大って死を迎える(遊行期)という新しいアーシュラマ理論を体系化したことは、ダルマスートラからの大きな発展であった。本質的に対立するはずの伝統的生き方と禁欲苦行的生き方とが、大ひとりの生涯において満足させられることとなり、長年の両者の対立は理論的に解消されることとなった。(p65-89)
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