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魔の山(上)
評価:
トーマス・マン
新潮社
¥ 961
(1969-02-25)
コメント:とにかくヘビーだ。読みこなすには根気がいる。挫けるな!前を見ろ!

|生活リズムが同じだと、あっという間に時間がすぎるという真理

「時間」とはなにか、「変化」とはなにか、というのがメインテーマの本作。
舞台は文明生活香る都会から離れたスイスの山中にあるダボス村、国際サナトリウム「ベルクホーフ」、魔の山。そこでは毎日単調な生活が繰り返され、療養所にやってくる患者たちの時間感覚を次々に麻痺させていく。一日と一ケ月との間に大きな違いはなく、時間が経つごとにどれほどの期間滞在していて、これからあとどれくらい療養が必要なのか分からなくなる。患者たちはその時間感覚を「水平生活」と称し、ある者は気が狂れ、ある者は症状の悪化を顧みず我慢の限界に抗えず下山する。
友達との何気ない会話や食事の際の些細なやりとりも単調な生活にあっては大きな変化になる、その事実を何度も何度も場面を変え表現を変えマンは文章で表現しているわけだけど、主人公が舞台のサナトリウムに来てからの最初の7日間を描写するのにじつに225ページも割いている(一日あたりおよそ30ページ!ながっ!)。その一日には5度の食事風景が丹念に描かれ、一日、二日と物語が進むごとにいったい何日目の何度目の食事風景なのかよく分からなくなり、知らず知らずのうちに読者も魔の山の時間感覚に浸されていくカラクリになっているわけだ。

本来であれば変化を生み出すために振り込まれたはずの時間が無為のうちに浪費されてしまう。そのことにたいする無念観・焦燥感は長く闘病したことがある人なら共感できる感覚だろう。本作に登場する青年たちも同様の苦悩を抱えており、(32-33p)、病とどう向き合うか、その先にある生と死とをどう自分の中で消化・昇華するのか悪戦苦闘を繰り広げる。ある意味、長期闘病者むけの葛藤マニュアルとも言える。


|最新の医療が最良、というわけではない

もうひとつ長期闘病者にとっての重要な示唆は「最新の医療が最良というわけではない」ということ。小説で描かれた結核患者にたいする当時の最新医療はレントゲン、肺や肋骨などを除去する外科手術、そして屋外静養(毛布にくるまってバルコニーに並べたベッドの上に寝てただすごす)だった。現代ならどうか。結核だと判明すれば、抗生物質で結核菌を殺して治す。肋骨の切除とか毛布にくるまってまで寒い屋外で療養するとか、およそ医療効果が得られそうにない荒行を患者に強いることは絶対にない。だけど、当時はそれが最新の医療技術だと信じられていた。お金のある人はその療養生活を送るために大枚をはたいた。現代に生きるぼくらの目線から見ればなんとも滑稽なことだけど、当時の人たちは本気だったのである。
代替医療のトリック」にも書いてある通り、最新の医療が最良であるとは限らない。その真理を行間に垣間みることができる。


|所得上位層はいつの世もインターナショナルである

昨今話題の「21世紀の資本論」の中でトマ・ピケティが指摘した1910年代のヨーロッパの経済格差。所得上位10%の人間が国富の50%以上を占めていた当時の状況について、ピケティはバルザックの「ゴリオ爺さん」を引き合いに出しているが、本作もまた「ゴリオ爺さん」同様、大戦前夜のヨーロッパの経済格差を書いた文学のひとつと言える。上述の通り、サナトリウムで療養生活を送るには膨大な金がかかったからだ。
そこは富める者たちだけの世界であり、独特のルールがあった。本作では主人公の目線をとおして、いかに「教養があるか(またはないか)」について何度も言及されているわけだが、その世界たるやじつにワールドワイドである。登場人物の出身地はドイツ各地に留まらず、オーストリア、ポーランド、オランダ、フランス、スペイン、ポルトガル、ロシア、はたまたメキシコなど、じつに多方面にわたり、世界中の富める者たち(長期療養生活に耐えられる経済力を持った人)がスイスのダボスに集結した様を色彩豊かに描写している。

†ふたたび一部の人間による富の独占が亢進している現在の世界。ドバイとかシンガポールとかの上流階級の生活スタイルをテレビとかで見ると、同じく「魔の山」状況になっていて、細かいことにいちいち釘を刺して、教養の有る無しを詮議していて、あー大変だなと思う(「世界の日本人妻は見た!」とか)


|けっこうヘビーな「教養小説」

雑感としては、「ドイツ教養小説の伝統に則ったマンの代表作の一つ」と言われるだけあって、けっこうヘビーでするすると読みすすめられる類の文学作品ではない。生物学、生理学、解剖学に関する用語がパレードしており、度々「あれ、今医学書読んでるんだっけ?」と錯覚に陥る。こうした専門用語は海老フライ定食に例えるとパセリだ。本作のメインディッシュ、つまり海老は、前述の「時間感覚」なので、パセリにぶちあたったら、テキトーに読み進めて先を急ごう。
「実際、君がきてくれてありかたかった」と彼はいった。そういう彼の、いつもはのんびりした声が、感動の調子を帯びていた。「ぼくにとってはまさしくひとつの事件ともいえるね。なんといってもひとつの変化だからな——つまりこの永遠の、無限の単調の中の段落、区切りというわけだ。・・・・・・」
「でも、だいたいここでは時問がさっさとすぎていくんじゃないのかい」とハンス・カストルプがきいた。
「速いとも遅いとも、なんとでもいえるね」とヨーアヒムは答えた。「ここではそもそも、時間は流れないとぼくはいいたいね。ここのは時問なんていうもんじゃない、また生活なんていうもんでもない——そうさ、何が生活なもんか」と彼は頭を振りふりいって、ふたたび酒杯へ手を差しのべた。(30p)



ヨーアヒムは憂信そうな顔になって、自分の運命についてこぼすのだった。
「いや、ぼくたちはこうしてここに坐って笑っているが」と彼は顔を傷ましく歪め、横隔膜の震動にときどき言葉をとぎらせながらいった。「いつになったらここをでられるのか、全然見当がつかない。だってベーレンスがもうあと半年といったら、それはぎりぎりの計算なんで、さらに長びくものと覚悟しなければならない。だが、これはなんともつらいことだ、まあ、ぼくにとって悲しくないことかどうか、考えてもみてくれよ。ぼくはもう認可を受けて、あくる月には将校試験が受けられるというところだったんだからね。それなのに現在こんなところでぶらぶらしているんだからなあ、体温計を口にくわえて。そうしてあの教養のないシュテール夫人のいい間違いを数えたてたりして、時をむだにすごしているんだ。一年といえば、ぼくたちの年配じゃ大変なことなんだ。下界の生活でならこれは多くの変化と進歩を意味するんだからね。それなのに、ぼくはここでたまり水みたいに淀んでいなくちゃならない——そうだよ、腐った水たまりそっくりだ、決して極端な譬(たと)えじゃない。・・・・・・」(32-33p)





      悪  魔(Satana)

 この紳士の歳(とし)のほどはたやすく推察しかねたが、おそらく三十歳と四十歳の中ごろであろうか。一見若々しかったが、誓(びん)のあたりにはもう白いものが見られ、上のほうはかなり薄くなっていた。薄い毛が中央に細長く残って、その両側に禿(はげ)が入江のように入りこみ、額を京秀(ひい)でて見せていた。淡黄色の弁慶格子の太いズボン、非常に大きな襟(えり)の、フラノのダブルの、長すぎる上着、といういでたちはどう考えても瀟洒(しょうしゃ)とはいえなかった。角の丸いシングルカラーも、なんどか水をくぐったせいか角目がほおけ、黒ネクタイも古く、どうやらカフスはなしですませているらしい。——ハンス・カストルプがそう睨(にら)んだのは、手首のまわりに袖(そで)がくたくたに垂れ下がっているからであった。しかし彼は、自分の目の前に立っているのが、一個の紳士であることは疑いえなかった。教養のありそうな表情、自由で美しいとも表現できる物腰を見ても、この異邦人がひとりの紳士であることには疑いを挿(さ)し挾(はさ)む余地はなかった。しかし古めかしさと優雅の混合、黒い眼、やわらかく撥(は)ねあがった口ひげなどからハンス・カストルプがただちに連想したのは、クリスマスの時分に故郷の家の中庭で演奏しながら、黒ビロードのような眼をあげて帽子を差しだし、窓から十ペニヒの金を投げてもらう異国の音楽家たちだった。「筒琴弾(ひ)きだ」と彼は思った。だからヨーアヒムがベンチから立ちあがって少しばかり照れくさそうに紹介したとき、その人の名を聞いて彼は別に奇妙だとも感じなかった。
「いとこのカストルプです。——こちら、セテムブリーニさん」
ハンス・カストルプは、今までのふざけたような気分からまだすっかりとは醒(さ)めきらない顔で、同じく挨拶(あいさつ)をしようとして立ちあがった。しかしイタリア人は、私にはどうぞお構いなく、と丁寧な言葉遣(づか)いでふたりにふたたび腰をおろさせ、自分はいままでどおりの優雅なポーズでふたりの前に立ちつづけた。彼はそうやって立ったままふたりを見て、とくにハンス・カストルプを見て微笑した。美しい曲線を描いて撥ねあがっている豊かなひげの下で、口の片隅(かたすみ)がいくぶんは皮肉そうに歪(ゆが)められてできたこの微笑には、他人にある程度の冷静さと警戒を要求するような、一種独特な力があって、浮きうきしていたハンス・カストルプもたちまち冷静になって照れてしまったほどだった。(98-99p)




「時間というものはね、見張っていると、実にのろのろとしか進まないものなんだ。ぼくには一日四回の検温がとても楽しみなんだが、それというのも、一分とか七分とかいうものが実際にはどれくらいの時間なのか、それが検温でよくわかるからなんだ——まったくここにいると、一週七日があっという間にすぎてしまう」
「君は『実際は』なんていうが、そういうことはいえないんじゃないかな」とハンス・カストルプは答えた。彼は片方の腿(もも)を手摺りに載せた格好でそこに腰をかけていたが、白眼には血管が赤く浮きだしていた。「時間にはね、決して『実際は』というようなことはないんだ。長いと感ずるんなら長いんだし、短いと感ずるんなら短い。それが実際にはどれくらい長いのか、または短いのか、そんなことは誰にもわからないじゃないか」ふだんの彼にならこんな哲学めいたおしゃべりの癖は全然なかったのに、いまの彼はそういうおしゃべりをしてみたい衝動を覚えた。
 ヨーアヒムはそれには反対だった。
「そうではないんじゃないか。だって時間を計るだろう、ぼくたちは。そのためには時計もあれば、カレンダーもある。ひと月たてば、それは君にも僕にも、誰にとってもひと月たったということなんだ」
「しかし、ね、いいかい」といってハンス・カストルプは、人差し指を濁った眼の横へかざしてみせた。「では一分とは、君が一分間検温するときに君の感ずるだけの長さを意味する訳だね」
「一分とは・・・・・・、秒針が一回転するのに必要な時間、つまり、その間つづく時間をさすんだ」
「ところが、秒針がひと回りするのに要する時間なんて、実はまちまちなんだ——ぼくたちの感じからいうとね。そして事実は・・・・・・つよりこの『事実上は』が問題ではなかろうか」とハンス・カストルプは言葉を繰返して、人差し指でぎゅっと鼻を押したので、鼻のさきがすっかり横へ曲ってしまった。「秒針が回ること、これはひとつの運動、空間的な運動にすぎない、そうだろう。そうか、つまりぼくたちは時間を空間で計っているんだ。しかしね、これは空間を時間で計ろうということにほかならない——空間を時間で計るのは、おそろしく非科学的な人間だけがやることなんだ。ハムブルクからダヴォスまで二十時間かかる——汽車ではね。しかし、歩けば何時間かかるだろうか。それから、頭で空想するとしたら。一秒だってかかりはしない」
「おい、君、君」とヨーアヒムはいった。「いったいどうしたんだ。ぼくたちが住んでいるここの土地は、君のからだに悪いのじゃないかな」
「まあ、黙っていたまえよ。きょうはすごく頭が冴(さ)えているんだ。そもそも時とは何か」とハンス・カストルプは問題を提出しながら、鼻の頭を乱暴に横へ押し曲げたために血の気が失せて鼻の頭が白くなった。「教えていただけますか。われわれは空間を感覚器官で、すなわち視覚と触覚とで捉える。それはいい。しかしながら、どの器官がいったい時間を捉えるのか。お教え願いたい。ほら、わからないだろう。そうだとしたら、もしぼくらが厳密にはそれについてなんにも知らないもの、そのたったひとつの性質さえ挙げることのできないものを、どんな方法で計ったらいいというんだ。普通ぼくたちは、時間が経つ、という。よろしい、時間が経過するとしよう。だが時間を計ることができるためには・・・・・・まあ、待ちたまえ、時間が計ることのできるものであるがためには、時間は一様にむらなく経過しなければなるまい。しかし時間がそんなふうに一様に経過するなんて、どこにそう書いてあるだろうか。ぼくたちの意識からすれば、時間は決して一様に流れていきはしない。ぼくらは秩序を維持する都合上、時間が一様にむらなく流れるものと仮定しているにすぎないので、従って、ぼくたちの時間単位なんてものは単なる約束ごとのひとつにすぎないのさ、失礼だが・・・・・・」
「なるほど、結構だ」とヨーアヒムはいった。「ではここでぼくの体温計の目盛りが五本多すぎるということも、単なる約束ごとだというわけかい。しかしながら、ぼくはこの五本の目盛りのおかげで、軍務にもつけないで、しょうことなしにここでのらくらしているんだ、これはいったいどういうことになるんだろう」
「七度五分もあるのか」
「いや、そのうちまた下がるよ」こういってヨーアヒムは体温表に書きこんだ。「ゆうべは八度近かったが、それは君の到着のためだ。お客があると、誰でも体温があがる。それでも誰か謝ねてきてくれるのは嬉しいよ」
「もう失敬しよう」とハンス・カストルプはいった。「頭の中には時間に関する考えがまだたくさんあるんだが——考えのかたまりといってもいいくらいにね。だけどそんなことで君をいま興奮させたくはない。いずれにしても、君の度盛りが多いことには変りがないものね。ぼくの考えは全部憶えておいて、あとでまた話すことにしよう。(116-118p)



どんどん時間感覚が失われてきて、じぶんの歳さえ分からなくなる異様な空間。魔の山。


「おもしろいともいえれば、退屈だともいえるようです」とハンス・カストルプは答えた。「場合によってはこの二つを区別するのが困難でしてね。全然退屈しなかったともいえるのです。——なにしろ退屈するには、ここの上の、あなたがたの生活はあまりにも賑(にぎ)やかですからね。見るもの聞くもの、すべてが新しかったり珍しがったりで、しかも、それがふんだんにある。・・・・・・それでいて、一日どころか、もうずいぶん長いことここに住んでるようにも思われるのです。・・・・・・ここへきてすっかり歳(とし)をとって、おかげで利口になったような気もするのです」
「利口に?」とセテムブリーニは眉(まゆ)を吊(つ)りあげた。「失礼ですが、いったいあなたはおいくつです」
 ところが、どうしたことかハンス・カストルプはそれに答えられなかった。彼は自分の歳を思いだそうと一所懸命に、いやそのために絶望的な努力をしてみたが、彼はその瞬間、自分の年齢がわからなくなってしまった。(150p)




退屈ということについては、世間にいろいろと間違った考え方が行われている。一般には、生活内容が興味深く新奇であれば、そのために時間は「追い払われる」、つまり時間が経(た)つのが短くなるが、単調とか空虚とかは時間の歩みにおもしをつけて遅くすると信じられているが、これは無条件に正しい考えではない。一瞬間、一時間などという場合には、単調とか空虚とかは、時間をひきのばして「退屈なもの」にするかもしれないが、大きな時間量、とほうもなく大きな時間量が問題になる場合には、空虚や単調はかえって時間を短縮させ、無に等しいもののように消失させてしまう。その反対に、内容豊富でおもしろいものだと、一時間や一日くらいなら、それを短縮し、飛翔(ひしょう)させもしようが、大きな時間量だとその歩みに幅、重さ、厚さを与えるから、事件の多い歳月は、風に吹き飛ばされるような、貧弱で空虚で重みのない歳月よりも、経過することがおそい。従って、時間が長くて退屈だというのは、本当は単調すぎるあまり、時間が病的に短縮されるということ、のんべんだらりとした死ぬほど退屈な単調さで、大きな時間量がおそろしく縮まるということを意味する。一日が他のすべての日と同じであるとしたら、千日も一日のごとくに感ぜられるであろう。そして毎日が完全に同じであるならば、いかに長い生涯といえどもおそろしく短く感じられ、いつの間にかすぎ去っていたことになるだろう。習慣とは、時間感覚の麻痺を意味する。あるいは少なくともその弛緩(しかん)を意味する。青春期の歩みが比較的ゆっくりとしているのに、それ以後の年月が次第にせわしい急ぎ足で流れすぎていくというのも、この習慣というものに原因があるにちがいない。新しい習慣を持つことや習慣を変えることなどが、生命力を維持し、時間感覚を新鮮なものにし、時間の体験を若返らせ強め伸ばすということ、それがまた生活感情全体の更新を可能にする唯一の手段であることをわれわれは心得ている。習慣の切替え、すなわち変化とエピソードによる休養と回復、これが転地とか湯治場行きとかいうことの目的である。新しい滞在地におけるはじめの数日にあっては、時間が溌剌(はつらつ)とした、力強く幅のある歩み方をするものだ。——これがおよそ六日から八日ぐらいの間は続く。そして、「慣れる」につれて次第に日々の足どりの短くなっていくのが感じられる。生に強く執着する人、もっと正確にいえば、生に執着しようとする人なら、いまふたたび日々が軽やかに。かすめるようにすぎていくのを見て、ぞっとすることだろう。たとえば、四週間の滞在では、最後の週が不気味なほど慌(あわ)ただしくすぎていく。むろん、この時間感覚更新の効果は、日常生活の中へ挿入的に入ってきた旅行後も残っていて、ふだんの生活に戻ったあとあとまでも効力を保っている。つまり旅行後の数日間はやはり新鮮で、幅が広く、若々しく感じられるが、しかしそれもほんの数日の短期間にすぎない。なぜなら、平素の生活習慣から離れるよりも、それに復帰するほうが容易だからである。その際、時間感覚が老齢のために衰弱しているか、あるいは——これは元来が生活力の弱い証拠にほかならないが——それが一度も旺盛(おうせい)な発達を遂げたことのない場合には、時間感覚はまたたちまちにして麻痺し、二十四時間もすれば、もう家を離れたことなんかなかったような、旅行がまるで一夜の夢であったかのような気になるものである。こういう見解をここへ挿入したのは、二、三日経ってからハンス・カストルプ青年が(赤く充血した眼でいとこを見て)、つぎのようにいったとき、彼もまたこれに似たことを考えていたからなのである。
「どう考えてみても不思議なのは、知らない土地へやってきた当初は時間が長く感じられるということだ。というのは・・・・・・何もぼくが退屈しているというんじゃなくてね、逆に、ぼくはまるで王様のように愉快にやっている、といってもいいくらいなんだ。けれども、振返ってみると、つまり回顧的にいえばだね、ぼくはもうここの上に、どのくらいかよくわからないほど長い間いるような気がする。ぼくがここへ着いて、着いたことがとっさにわからないでいたとき、君が『さ
あ、おりるんだよ』といってくれたが——覚えているかい——あれはもう大昔のことのように思われる。これは時間を測るとか頭で考えるとかいうこととは全然無関係の、純然たる感じだけの問題だが。『ここへきてもう二月も経ったような気がする』といえば、これはむろんばからしい、ナンセンス以外の何物でもない。けれども『とても長く』ということだけは、これはたしかにいえることだね」
「そうさ」と、体温計を口にくわえたまま、ヨーアヒムは答えた。「それでぼくも大助かりだ。君がここにやってきてくれてから、ぼくはまあ君にしがみついているようなものだから」ヨーアヒムがこんなことをまったく無造作に、しかも全然説明なしでいったので、ハンス・カストルプはおかしくなって笑いだした。(181-184p)





「ぼくはやはりこういうコンサートを催してくれる当事者側に感謝すべきだと思います」と、ヨーアヒムは考え深そうにいった。「セテムブリーニさん、あなたはこの問題を一段高いところから、つまり文学者の立場から眺めていらっしゃる。それにはぼくも異議はありません。それにしても、ここでこうして少しばかり音楽が聴けるということに、ぼくはやはり感謝してしかるべきだと思うのです。ぼくはとくに音楽好きではありませんし、ここでいま演奏されている音楽にしたところが、とくにすばらしいとは思いません。——古典ものでも近代ものでもなくて、ただの吹奏楽にすぎません。しかしそれでもありがたい気分転換だと思うのです。二、三時間の時間はまともに満たしてくれます。時間をいくつにも分けて各部分を満たしてくれるので、どの部分も何か内容を持つことになります。ところが、ここではどうでしょう、ここではいつも何時間、何日、何週間というものがあっという問にすぎていってしまいます。・・・・・・いま演奏しているような軽い曲の続くのはおそらく七分間ぐらいのものでしょうが、その七分はそれだけで独立した何物かであるわけです。初めと終わりがちゃんとあって、それは他の部分からは際だっていて、いつものようにすぐ消え失せてしまわないようになっています。さらにこの七分は、曲の音形によっていくつかの部分に分けられ、音形はさらに拍節に分けられているので、つねに何かが進行しつつあり、どの瞬間にも何か手ごたえのある意味が与えられているのです。ところ、いつもはそれが・・・・・・どうも私には正確に・・・・・・」
「すてきだ」とセテムブリーニが叫んだ。(198-199p)





 それでは、生命とはいったい何であったか。それは熱だった。形態を維持しながらたえずその形態を変える不安定なものが作りだす熱、きわめて複雑にしてしかも精巧な構成を有する蛋白分子が、同一の状態を保持できないほど不断に分解し更新する過程に伴う物質熱である。生命とは、本来存在しえないものの存在、すなわち、崩壊と新生が交錯する熱過程の中にあってのみ、しかも甘美に痛ましく、辛うじて存在の点上に均衡を保っている存在である。生命は物質でも精神でもない。物質と精神の中間にあって、瀑布にかかる虹のような、また、炎のような、物質から生れた一現象である。生命は物質ではないが、しかし快感や嫌悪を感じさせるほど官能的なもので、だから、自分自身を感じうるほどにまで敏感になった物質の淫蕩な姿、存在の淫らな形式である。生命は、宇宙の純潔な冷気中での秘密な敏感な運動であり、栄養摂取と排泄との淫らで秘密な汚れであり、炭酸ガスと、素性も性質も曖昧な不純な成分から生れる排泄物的息吹きなのである。生命とは、水と蛋白と塩分と脂肪とから成り、肉と呼ばれるこのぶよぶよしたものは、自己の存在の不安定さに圧倒され、固有の形成法則に縛られたままに増殖、展開、形態形成を行う。それは形を得て高貴な形象となり、美にもなるが、それでいてつねに官能と欲望とのかたまりである。なぜならその形や美は、文学や音楽の作品のように精神によって生れるのではなく、また造形美術品の形や美のように、精神を無我夢中にする中立的な物質、精神を純潔なやり方で官能化する物質から生みだされたのではないからである。その形や美は、なんらかの事情で肉欲に眼ざめた物質、死にながら生きている有機物質、匂いを放つ肉によって生みだされ、作りだされたものなのである。……(p469-470)





実際、有機自然と無機自然の問の深淵と同様に、あるいはそれ以上に物質、非物質間の深淵を埋めることが切実な問題となっている。そして、有機体が無機的結合から生ずるように、物質が非物質的結合から生ずるという、いわば非物質の化学が生れてこなければならなくなる。そして原子は、物質の原生類や無核類——すなわちその性質からいって物質的であってしかも物質的でない物ということになる。しかし「小さいとさえいえない」ところへ到達すれば、そもそも標準というものがなくなってしまう。「小さいとさえいえない」とは、すでに「おそろしく大きい」と同じ意味である。こうして原子までおりていくことはきわめて危険だといっても過言ではない。なぜなら、物質を徹底的に分解し微分していくと、突然天文学的大宇宙が眼前に展開してくるからである。(p480)
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