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代替医療のトリック
評価:
サイモン シン,エツァート エルンスト
新潮社
¥ 2,520
(2010-01)
コメント:鍼、ホメオパシー、カイロプラクティック、アロマセラピー――世の中にごまんと存在する代替医療は本当に効果があるのか。「なんや、うさんくさくてしゃあないな」と少しでも思ったことがある人は読んでみよう。臨床試験の検問をくぐらせてそれぞれの効果の程をしっかりと本書は検証しているぞ!

科学的根拠にもとづく医療をめざす現代に、巷にあふれる代替医療ははたして本当に効果があるのか検証した本。ホメオパシーカイロプラクティックなどなど。なんか怪しいしほんまに効果あるんかいな、とふだん疑問に思っているひとにはオススメです。

おもしろいのは本書を批判している代替医療関係者のおおくが非常に感情的になっていること。じぶんの既得権や努力の結晶を結果的に否定されてしまうわけだからさもありなんといった反応なんだけど、その反応も含めて著者が厳格に比較・分析し、批判していることをこのひとたちはしっかり読み取ったんだろうか(まあ、読み取っていないんでしょう)。
 もしあなたが科学の力に懐疑的な人であっても、せめて第犠呂脇匹鵑任澆討發蕕い燭ぁB茘犠呂鯑匹濬えるまでには科学的方法の価値に納得し、以降の章の結論を受け入れてもよいという気持ちになってもらえるだろう。
 しかし第犠呂鯑匹鵑任發覆、科学が代替医療の効果を判定する最善の方法だとは思えないという人もいるだろう。そういう人は科学が何を言おうと、自分の世界観を手放す気はないのかもしれない。「代替医療はどれもこれもクズだ」という確固たる信念の持ち主もいるだろうし、逆に、「代替医療はあらゆる痛みや病気を癒してくれる万能薬だ」と言って譲らない人もいるだろう。本書はそういう人のための本ではない。科学的方法で真実を判定できると考えるつもりがまったくないのなら、第犠呂鯑匹爐海箸砲垢薜嫐はない。実際、もしもあなたが代替医療について、すでに確固たる意見をもっているなら、本書を書店に返し、代金を払い戻してくれるよう頼んだほうがよいかもしれない。すでに答えをもっているなら、たとえ何千件という研究から引き出された結果であろうと、今さら聞く意味はないだろう。(16p)

と冒頭にしっかりと書かれているのにね。
《科学的根拠にもとづく医療》は信頼性の高い情報を提供することによって医師を助け、最適な治療を受けられる可能性を高めて患者に利益を与える。二十一世紀の私たちにとって、医療についての決定を下す際、科学的根拠(ふつうはランダム化臨床試験で得られる根拠)を用いるのは当然のように思えるかもしれないが、《科学的根拠にもとづく医療》の出現は、医療の歴史における大きな転換点なのだ。
《科学的根拠にもとづく医療》というアプローチが生まれる以前、医師たちは驚くほど無力だった。病気から回復した患者は、治療のおかげで回復したのではなく、たいていは治療を受けたにもかかわらず治癒したのである。しかし、医療の主流派が臨床試験というごくシンプルな考え方を採用してからは、進展は早かった。今日では、臨床試験は新しい治療法を開発する際には当然踏まなければならないステップであって、効果的な医療を行うための鍵だという点で、医療の専門家の意見は一致する。
 しかし、医療の主流派の外部にいる人たちは、《科学的根拠にもとづく医療》というアプローチを、冷たく難しげで威嚇的だと感じるようだ。もしもあなたが多少ともそう感じでいるなら、《臨床試験》と《科学的根拠にもとづく医療》が登場する以前の世界が、どのようなものだったかを思い出してみよう。医師たちは、何百万人という人びとの血を流させることでどれほどの害をなしているかに――ジョージ・ワシントンをはじめ多くの患者を死に至らしめていることに――気づいてすらいなかった。しかし医師たちは愚かだったわけでも、邪悪だったわけでもない。彼らには臨床試験が盛んに行われるようになって得られた知識がなかっただけなのだ。
(中略)
 今日では、科学的根拠にもとづき、ラッシュがさかんに行ったような瀉血は間違った治療法であるとして否定されているが、《科学的根拠にもとづく医療》は、もしも新しい根拠が得られれば、ただちにそれを考慮に入れ、以前の結論を見なおすという点は指摘しておかなければならない。たとえば、臨床試験で得られた最新の根拠にもとづき、ごくかぎられた場合に、瀉血はふたたび治療法として認められている。(中略)
《科学的根拠にもとづく医療》の威力に疑問の余地はないにもかかわらず、この考え方に疑問の目が向けられることがある。医療界の主流派が派閥の構成員とその治療法を擁護し、代替医療に従事する部外者を排斥するための戦略だと考える人たちがいるのだ。しかしすでに見たように、真実はその逆であることが多い。なぜなら、《科学的根拠にもとづく医療》は、部外者の意見に耳を傾けるものだからである。このアプローチは、効果があると判断した治療法は、それがどんなものでも、その治療法を支持しているのが何者であっても、そしてその治療法がどれほど奇妙に見えようとも、それを認めて受け入れる。壊血病の治療としてレモン果汁を与えることは、およそ信じられないような治療法だったが、臨床試験によって科学的根拠を与えられたため、主流派はそれを認めざるをえなかった。一方、瀉血はごく普通に行われる治療法だったが、臨床試験によって科学的根拠を突き崩され、主流派はついに、自分たちの治療法である瀉血を捨てなければならなかった。(41−43p)



 では、もしも経絡や気が想像上のものであって実在しないのなら、鍼の効能とされるものは、いったいどんなメカニズムに基礎づけられているのだろうか?ニクソン訪中から二十年を経てふたたび西洋にもち込まれた鍼だったが、科学者たちは、鍼が鼻炎から歯肉炎、性交不能から赤痢まで、これほど多くの症状に効く理由がわからないと認めざるをえなかった。しかし鍼の鎮痛効果に関しては、いくつか信頼できそうな仮説があった。
 第一の仮説は、科学者たちが鍼について考え出すより十年ほど前の一九六〇年代はじめに立てられた、痛みの《ゲートコントロール説》である。カナダ人のロナルド・メルザックとイギリス人のパトリック・ウォールが共同研究を行い、皮膚に与えられた刺激は、ある種の神経繊維によって神経中枢の接合部に伝えられるが、単にそれだけでなく、「ゲート」を閉じることもできると主張したものだ。もしも皮膚に与えられた刺激によってゲートが閉じれば、他の刺激、たとえば痛みなどは脳にたどり着くことができず、痛みとしてほとんど認知されなくなる。そうだとすると、皮膚に小さな刺激を与えてゲートを閉ざし、大きな痛みの刺激が脳に届かないようにすれば、ほかの理由によって生じた大きな痛みを抑え込めるだろう。痛みのゲートコントロール説は、痛む手足をさすると痛みがやわらぐ理由を説明する説として広く受け入れられている。では、鍼の鎮痛効果は、ゲートコントロール説によって説明できるのだろうか?西洋の鍼治療師の多くは、針を刺すときの小さな痛みによってゲートが閉ざされ、大きな痛みをブロックするのだと主張するが、懐疑的な人たちは、その主張の正しさを裏づけるたしかな証拠はないと指摘する。痛みのゲートコントロール説は、ほかの状況はうまく説明したかもしれないが、鍼の効果がこのメカニズムにもとづくものかどうかは未証明なのだ。
 鍼の効果を説明する第二の仮説は、強力な天然鎮痛剤として作用する《オピオイド》という化学物質の存在にもとづいている。オピオイドのなかでもとくに重要なものに、エンドルフィンの名前で知られる物質がある。いくつかの研究から、鍼の刺激によって、脳内で実際にこのような化学物質が放出されることがわかった。当然、鍼治療師はこうした研究を歓迎したが、やはり懐疑的な人たちはいた。そういう人たちは、鍼を打つことで鎮痛効果が得られるほどのオピオイドが放出されるかどうかはわからないと言い、また、エンドルフィンと鍼とのあいだに何の関係も示せなかった研究もあることを指摘する。
 つまり、鍼の効果を説明してくれそうな仮説は二つあるが、どちらも裏付けが弱すぎ、医療の主流派は納得していないということだ。そのため科学者たちは、どちらかの説を受け入れるのではなく、さらに研究を進め、鍼の鎮痛効果を説明する新たな説を打ち出した。実際、もしもその第三の説が正しければ、鎮痛効果のみならず、鍼の利益とされるものすべてが説明できてしまうかもしれない。鍼治療師には気の毒だが、その第三の説によれば、鍼の影響とされているものはすべて、論争にまみれた長い歴史をもつ《プラセボ効果》という医療上の現象だということになってしまうのだ。(76−78p)



 《プラセボ》という言葉は、「私は喜ぶであろう」という意味のラテン語で、チョーサーらの作家は、本心とは裏腹に気休めを言うという意味で用いた。たとえばチョーサーは、「甘言を用いる者は、いつも甘言の歌(プラセボ)を歌っている悪魔の司祭なのです」と書いている。プラセボという言葉が、医療上の特殊な意味、すなわち、「偽の治療や、効果のない治療であっても、気休めにはなる場合がある」という意味で使われるようになったのは、ようやく一八三二年のことである。
 ここで重要なのは、ヘイガースがプラセボ効果はみせかけの治療法だけのものではないことに気づき、本物の薬の効果にも、一役買っていると論じたことだ。たとえば、患者がアスピリンを飲むことによって得られる効き目の大半は、この薬の生化学的な効果によるものだが、患者がアスピリンの効果に信頼を置いているか、またはアスピリンを処方した医師を信頼している場合には、おまけとしてプラセボ効果がついてくる。換言すれば、本物の薬によって得られる効き目の大半は薬自体の効果であって、プラセボ効果によるものは一部分にすぎないのに対し、見せかけの薬による効き目は、全面的にプラセボ効果だけからもたらされるということだ。
 プラセボ効果が得られるのは、患者がその治療法を信頼している場合だけなので、ヘイガースは、どういう要素がプラセボ効果を大きくするだろうかと考えてみた。そして彼は、意思の評判が高いこと、治療費が高いこと、治療法が目新しいことという三つの要素が、とくにプラセボ効果を高めると結論した。古来、多くの医師たちが、自分の評判を高めることに熱心で、治療費が高いのはそれだけの効果があるからだと主張し、治療法の新しさを力説していることから考えて、医師たちはきっとプラセボ効果の存在に気づいていたのだろう。実際、ヘイガースがこの実験を行う前から、医師たちは何世紀にもわたり、こっそりとプラセボ効果を利用していたとみてまず間違いない。それでも、プラセボ効果についてはじめて本を著し、その秘密を明かしたことはヘイガースの功績である。(81−82p)



(前略)プラセボ効果は有益そうだが、プラセボ効果が悪影響を及ぼす可能性もあることを忘れてはいけない。たとえば、プラセボ反応だけの効果で具合がよくなったかに感じている患者がいるとしよう。根本的な問題は何も変わっておらず、治療を続ける必要があるにもかかわらず、一時的に症状が改善した患者は、治療を受けようとはしなくなる可能性が高まる。内胸結紮の場合であれば、冠動脈が狭くなっているせいで、酸素の供給量が不足しているという状況は変わっていないのに、患者は偽の安心感を得てしまうだろう。
 ここまでの話からすると、プラセボ効果は鎮痛効果だけに限られるのだろうと思うかもしれない――偽の治療のおかげで患者に気力が湧き、痛みを感じにくくなるのだろう、と。しかしそう考えたのでは、プラセボ効果の威力と、それがおよぶ範囲を過小評価してしまう。プラセボ効果は、不眠症、吐き気、抑鬱症状をはじめ、実にさまざまな症状に影響をおよぼすことがわかっている。実際科学者たちは、プラセボ効果によって、身体にまぎれもない生理学的変化が起こることを確かめた。プラセボ効果は、生理機能に直接影響を及ぼすことにより、単なる気の持ちようといったレベルにとどまらない、大きな効果をもつことが明らかになっているのだ。(85p)



 プラセボ効果に対する別の説明として、《期待説》がある。この説は、治療を受ければ効果があると期待したほうが、治療の効果が上がる可能性は高まるというものだ。条件付け反応説では、プラセボ反応は無意識の心の働きによって起こると考えられるのに対し、期待説では、意識的な心の働きもプラセボ反応に一役買っていると考えられる。期待説は、さまざまな研究から得られた多くのデータによって支持されているが、そのメカニズムはまだほとんど解明されていない。ひとつ考えられるのは、私たちの期待が、身体の《急性期反応》となんらかの相互作用をする可能性だ。
 急性期反応には、痛み、腫れ、熱、昏睡、食欲不振など、さまざまな身体反応が含まれる。かいつまんで言うと、急性期反応とは、怪我をしたときに起こる緊急防御反応をひっくるめて指す言葉だ。たとえば、私たちが痛みを感じるのは、身体が傷ついているから、傷ついた部分を保護して養生する必要があることを、体が私たちに教えているのだと考えられる。腫れも私たちの役に立つ。なぜなら、腫れが生じるのは、怪我をした部分に向かう血液の流れが増えるためで、血流が増えれば傷の治りも早まるからだ。熱が出るのも、体内に侵入した細菌を殺し、体の免疫細胞が働きやすくするのに役立つ。同様に、昏睡に陥るのは、緊急に必要な休養を取らせ、回復を早めるのに役立つし、食欲不振になれば、食べ物を探して歩き回ることもないので、さらに休養を取りやすい。興味深いことに、プラセボ効果がとくに起こりやすいのは、痛み、腫れ、熱、昏睡、食欲不振といった症状にたいしてなのだ。おそらくプラセボ効果は、より基礎的なレベルで私たちの身体にそなわる急性期反応を、「この治療をすれば回復できる」と期待することで押さえ込むために、生まれながらにもつ能力なのだろう。(86−67p)



 医学の研究者たちが、科学的根拠からみて、鍼にはほとんど効果がなさそうだと言うと、鍼治療師たちは、主として次の五つの点を挙げて反論する。これらの論点は、一見すると説得力がありそうだが、実は、その論拠はきわめて薄弱だ。以下ではひとつひとつそれを見ていこう。

1 鍼治療師は、ランダム化プラセボ対照比較試験のなかには鍼の有効性を示しているものがあるのだから、そういう結論を無視してよいはずがないと言う。もちろん、そういう根拠は無視されるべきではないが、反対の結果を示す根拠と重みを比較して、裁判で陪審が行うように、どちらの論拠がより説得的かを判断する必要がある。そこで両方の根拠の重みを比べてみよう。鍼は、合理的なあらゆる疑問を越えて、広範な病気に効くのだろうか?答えは「ノー」だ。鍼は、合理的なあらゆる疑問を越えて、痛みや吐き気に効くくのだろうか?答えはやはり「ノー」だ。鍼は、あらゆる可能性を比較検討したときに、痛みや吐き気に効くと言えるのだろうか?この問いに関しては、陪審はまだ結論に達していないけれども、時間が経って科学的厳密性が高まるにつれて、科学的根拠の天秤は次第に鍼に不利なほうに傾いている。たとえば、本書が印刷所にまわされようという時点で、慢性の腰痛に関して、六百四十人の患者を含む臨床試験の結果が出た。アメリカの国立衛生研究所から研究資金を受けて、ダニエル・チャーキンが進めているその研究によれば、偽鍼には本物の鍼とまったく変わらない効果がある。この結果は、鍼療法は強力なプラセボにすぎないという見解を支持している。

2 鍼治療師は、鍼はさまざまな代替医療と同じく、一人ひとりの患者に合わせた(個別化された)複雑な治療法なので、臨床試験のような大規模な検証には馴染まないと言う。しかしこの意見は、臨床試験に対する誤解――臨床試験では患者一人ひとりに合わせることはしないとか、状況の複雑さは考慮に入れないといった誤解――にもとづいている。実際には、患者一人ひとりの特徴や状況の複雑さは、臨床試験のデザインに組み込むことができる(現に組み込まれていることが多い)。また、通常の医療のほとんどは、鍼と同様、一人ひとりの患者に合わせた複雑な治療過程であるばかりか、臨床試験によって治療法が進歩する。たとえば、医師は患者に対して、病歴、年齢、全般的な健康状態、最近起こった食習慣の変化や生活習慣の変化などを尋ねるのが普通だ。こうした要因をすべて考慮に入れた上で、医師は一人ひとりの患者に合った治療を行う――そしてその治療法は、ランダム化臨床試験により、すでに有効性が確かめられているとみてよい。

3 鍼治療師の多くは、鍼の基礎にある哲学は一般的な科学とは相容れないので、臨床試験で鍼の有効性を検証するのは不適切だという。しかしこの非難は的はずれだろう。なぜなら、臨床試験は哲学とは関係がないからだ。臨床試験で試されるのは、その治療が効くかどうかだけなのだから。

4 鍼治療師は、代替医療の効果はきわめてデリケートなので、臨床試験にはないまないと言う。しかし、もしも鍼の効果が検証できないほどデリケートなら、それは行うに値する治療なのだろうか?現代の臨床試験は、どんな治療法の有効性も評価できるほど高度に洗練され、状況に柔軟に対処できるので、むしろデリケートな効果を検証するのに適している。臨床試験では、患者の血液検査もすれば、患者に健康状態について尋ねもするし、ありとあらゆる方法を取り入れることができる。臨床試験のなかには、十分に検討された質問用紙を用いて、患者に体の痛み、情緒的な問題、全般的な体調、生活の質について答えてもらうものもある。

5 最後に、鍼治療師のなかにはこう論じる人たちがいる。なるほど本物の鍼も偽鍼と同程度の成績しか出せないかもしれないが、偽鍼が患者に医療効果を及ぼすならそれでよいではないか、と。これまで本書の中では、偽鍼はプラセボ効果を上まわる効果はないと仮定してきたが、鍼を浅く打ったり、経穴をはずして打ったりしても、経絡になんらかの影響が及ぶとしたらどうだろう?だが、もしもそんな影響が現実にあるなら、鍼の哲学そのものが崩壊する。なぜならその場合、どの位置にどんな深さで鍼を打っても治療効果があることになるからだ。しかし、そんなことは到底ありそうにない。それに伸縮鍼が開発されたことで、この問題は解消した。伸縮鍼は皮膚に刺さらないため、経絡にはつながりようがないからだ。鍼治療師は、伸縮鍼は皮膚に圧力をかけるので治療効果があがるのだと言うかもしれないが、もしそうなら、握手をしたり、背中を叩いたり、耳を掻いたりしても治療効果があることになってしまう。逆に、皮膚にそうした圧力が加わったせいで気の流れに劇的な影響が出て、具合が悪くなることもあるかもしれない。


 つまりどの批判も、厳密な吟味には耐えないのだ。職業としても心情面でも大きくコミットしている治療法を守りたいと思わずにはいられない治療師ならば、こうした根拠薄弱なことを言ってしまうかもしれない。鍼治療師たちは、臨床試験こそは、今あるなかでももっともバイアスを小さくできる方法だということを認めたくないのだろう。しかし臨床試験は、決して完璧ではなくとも、私たちを真実にもっとも近づけてくれる方法なのである。(中略)

 薬の効能を大げさに言い立てる者が、人を騙そうとしてやっていることはまずめったにない。そういう大げさな言葉は、思いやりあふれる共謀の結果として、よかれと思う気持ちとともに出てくるのが常だ。患者はよくなりたいし、医者は患者を治したいし、製薬会社は医師の力になって患者の役に立ちたいのだ。対照比較試験は、そうした"よかれと思う心"の共謀に取りこまれないための試みなのである。(115−118p)



 厳密さが欠けていれば、とくに盲検化が行われていなければ、どれほど誠実で志の高い科学者でも、科学的結果に重大なバイアスを持ち込んでしまう恐れがある。たとえば次のようなシナリオを考えてみよう。ある科学者が、男性は空間認知能力と運動能力が優れているとの仮説を提唱し、その成否に自分の評判がかかっているものとする。仮説を立証するためには、複数の男性と女性にフリーハンドで円を描いてもらい、出来を比較すればよいと、その科学者は考えている。実験が始まり、数名の男性と女性がフリーハンドで円を描き、紙の上部に記名する。その紙を助手が集めて、科学者に手渡す。科学者は、目で絵を見て、十点満点で採点するとしよう。しかし、紙の上部を見れば絵を描いた人物の名前がわかるから、無意識のうちに、男性の円のほうに甘い採点をしてしまうかもしれない。そのため、真実がどうであれ、男性のほうが女性よりも上手に円を描けるという仮説を支持するデータが得られる可能性が高くなる。それに対して、この実験に対する再現実験が行われ、絵を描く被験者たちは、性別を隠すために名前の代わりに番号を与えられたとすれば、科学者は「目隠し」されたことになり、男性と女性のどちらが描いた円に対しても、より公正な評価ができる可能性が高い。こうして得られた新しい結果は、より信頼できると考えられる。(160−161p)





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