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赤の女王
性とヒトの進化
評価:
マット リドレー
翔泳社
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(1995-01)
コメント:なぜ男は一人でもおおくの女性と関係をもとうとするのか、なぜ女は一人の男性をもとめるのか――読むとわかる一冊。実は相続の裏には遺伝子の強力な吹き込みがある、なんていう事実は歴史好きのひとの興味もひきつけるかも

これまで生物学で語られることのなかった男女のやりとりや社会現象を「遺伝子」という切り口で紐解く。なぜ男は複数の女性と関係をもとうとし女はひとりの男性にこだわるのか。なぜ中世ヨーロッパでは社会上位層が男子を残して女子を修道院送りにしたのか、逆に社会下層は女子を残して男子をまびいたのか――そこには遺伝情報を次の生命体につなげようとする遺伝子間の熾烈な競争が隠されていた。本書の題名はそのやむことのなくお互いを追いかけるように競争する遺伝子の姿を、鏡の国のアリスの「赤の女王」ににせてつけられている。

いままでのなかで一番引用が多かった。下記と同じくらいの文量がじつは引用箇所として付箋がはられている。それくらい「ああ、こんなふうに言いたかったんだよ」というのがスッキリ文字に落とされている。著者は自身の中立性と「ただ事実を語っているのだ」と言い訳しているけれど(※1)、訳者があとがきでかいているとおり、一部の女性には嫌悪感をもたれるような内容になっているかもしれない。
※1
この言い方そのものが、非常に「男性的」な物言いだなあとおもった

確信をもってこう断言しよう。我々の特性は、

すべて人類の繁殖成功度に貢献するために念入りに選ばれてきたのだ、と。

 これは、途方もなく傲慢な主張のように思われる。自由意志を否定し、貞節の道をいく人々を無視する言動のように聞こえる。人間は再生産だけに専念するようプログラムされたロボットでしかなく、モーツァルトもシェークスピアも、セックスのことしか考えていなかったということですまされてしまいそうだ。私が言いたいのは、進化なくしては人間の本性の発展は考えられなかったのであり、競争邸繁殖なくしては進化もまたありえなかったということである。

産み出す者は生き残り、産まざる者は死に絶える。

生ある者を石ころと区別するのは、まさしく繁殖能力だ。ここで、生命に関するこうした観点が、自由意志や貞節と矛盾するのではないかということに触れておきたい。人間は、イニシアチブをとり、個々の才能を発揮する能力に応じて繁栄すると私は考えている。しかし、自由意志は、お遊びで与えられたものではない。我々の祖先が進化によってイニシアチブをとる能力を身につけたのは、それなりの理由がある。自由意志とイニシアチブは、手段として与えられたのである。それは、野望を満たすための手段であり、仲間と競い合うための手段であり、緊急事態に対処するための手段であり、最終的には、子どもをより多く産み、よりよく育てるという点において、他者より優位に立つための手段であった。つまり、自由意志そのものは、究極的に繁殖に貢献するという範囲においてのみ、有益なのである。(4p)



物理学においては、「なぜ」と「いかに」に大差はない。いかにして、地球は太陽のまわりを回るのか?重力によってである。なぜ地球は太陽のまわりを回るのか?重力のせいである。しかし生物学となると、こういったわけにはいかない。進化という、偶然に依存する歴史をも扱わなければならないからだ。このことを、人類学者ライオネル・タイガーは次のように表現している。
「我々はある意味ではいやおうなしに、数千世代にわたる自然淘汰が蓄積した力によって制約を受け、それに駆り立てられ、少なくともその影響を受けている」
 歴史がどう賽(さい)を振ろうと、重力は重力である。しかし、クジャクのオスが華麗なのは、歴史のある時点でクジャクのメスの祖先が判断の基準を変えたからなのだ。世俗的、実用的な規範でオスを選ぶのをやめ、精巧な装飾を好むようになったのである。

すべての生物は、それぞれの過去が生み出したものなのだ。

ネオダーウィニストが「なぜ?」と問うとき、彼が実際に問題にしているのは、「いかにしてそれが起こったか?」なのである。彼は歴史家なのだ。(21-22p)



すべての進歩は相対的である、というこの概念は、生物学の分野では「赤の女王仮説」として知られるようになった。『鏡の国のアリス』のなかで、アリスが出会うあの女王のことである。赤の女王は走り続けるが、永遠に同じ場所にとどまっている。風景が彼女についてくるからだ。この考え方は、進化の理論にますます大きな影響を与えるようになってきており、本書でも再三繰り返されることになるだろう。

速く走れば走るほど、世界もまた速度を増し、それだけ進歩は少なくなる。

人生はチェスのトーナメントだ。ゲームに勝ったところでまた次のゲームに進まなければならない。しかも「駒落ち」というハンディキャップを負って。(22p)



 生命が数十億年前の原始のスープのなかで、初めて出現すると、他の犠牲のもとに、自らを複製していくような分子がだんだん増加していくことになった。そのうちに、それらの分子のなかに、協力と作業分担の利点に気づくものが現れ、彼らは集まって染色体とよばれるグループを形成し、その染色体を効果的に複製するための、細胞と呼ばれる機械を運転し始めた。それは、農民の小さなグループが、鍛冶屋や大工と力を合わせて、

村と呼ばれる共同体を形成したのと同様である。

次に染色体が発見したのは、数種類の細胞どうしが合体して一つの超細胞を組織できるということであった。これもまた、村がいくつか合体して部族が作られ始めるのと同様である。このようにして、いくつかの異なるバクテリアの一団から今日の細胞というものが作り出された。これらの細胞がまたいっしょになって、動物、植物、キノコといった遺伝子の複合体の、そのまた複合体が形成されていった。それはまさしく、

部族が合併しあって国家となり、国家が合併しあって帝国を築くのと同様である。

 こうした社会を成立させるためには、利己的な衝動を抑え、個人よりも社会の利益のために行動させるような法律が不可欠である。同じことが遺伝子にも当てはまる。後世が遺伝子の価値を判断する唯一の基準は、他の遺伝子の祖先になりえるかどうかということである。そして、ほとんどの場合それは、他の遺伝子の犠牲のもとに達成される。それは、人が富を手に入れることが、合法的にであれ、非合法的にであれ、たいていは他人に富を手離させることによって可能になるのと同じである。遺伝子が独力でやっていこうとするなら、他のすべての遺伝子は敵である。人の場合も同様だ。しかし、遺伝子が連合するならば、ライバル連合を打破することで共通の利益を分かち合うことができる。それは、ボーイング社の社員はみな、エアバスの犠牲のもとで繁栄するという共通の利益を分かち合っているのと同じである。(122-123p)



自分の子どもの性を選ぶということ。それは確かに、個人的な決断であり、なんら他人に影響を与えることはないはずだ。なればなぜ、このような考え方はもとから不人気なのだろう?これは「共有地の悲劇」なのだ。個人が合理的に私利私欲を追求すれば、それは結果として、集団の損害を招いてしまうのだ。一人の人間が、男の子だけを選んで産んだとしても、それだけのことならだれの迷惑にもならない。しかし、全員がこれを行ったら、全員が苦しむことになるのである。前方には、数々の悲惨な出来事が待ち受けているだろう。そこは、男の支配する社会である。レイプや無法行為が横行する。それでも飽き足らず、男たちは持ち前のフロンティア精神を発揮して、もっともっと、地位、権力、支配を拡大しようとするだろう。やがて、性的欲求不満がほとんどの男たちの運命となるだろう。
 無法者遺伝子を撃退するために「交叉」が発明されたように、個人の利益よりも集団の利益を守るためにほうが制定されることになる。

もし、男女の産み分けが安価にできるようになれば、議会は人間に一対一の性比を強制することになるだろう。

それは、遺伝子議会によって、均等な減数分裂が制定されたのと同じくらい確実である。(170-171p)



一九九一年、アンデルス・モラーとアンドリュー・ポミアンコウスキーは、フィッシャー説と優良遺伝子説の内戦を終わらせることができそうな、ある方法を偶然に見つけた。左右対称性である。左右対称性は、発達上の偶然事としてよく知られており、動物がよい状態で生育した場合には体の左右対称性に優れ、生育期になんらかのストレスを経験すると、左右対称性に劣るようになる。たとえばガガンボモドキは、自分自身が栄誉十分で、つれあいにたくさんのえさをもってこられるようなオスを父親にすると、体がより左右対称となる。理由は簡単で、例のスパナを投げ込んで邪魔するというたとえを思い出してくれればよい。

左右対称のものをつくるのは簡単ではない。

ちょっとでも進行を妨げるものがあれば、左右非対称となる。(203-204p)



人間が進化の産物であるのは、粘菌がそうであるのと変わりはない。そして、進化に対する科学者の考え方が、過去二〇年間に大変革を遂げたこともまた、人間にとって大きな意味をもっているのである。これまでの議論を要約すると、進化とは適者の生存というよりも適者の繁殖である。地球上のあらゆる生物は、戦いの歴史の所産である。寄生虫と宿主の戦い、遺伝子と遺伝子の戦い、同じ種に属する生物どうしの戦い、異性を獲得するための同性の戦い、この戦いには、同種の仲間を操り、利用する心理戦も含まれる。だがこの戦いに勝者はない。ある世代で勝利しても、次の世代の敵は、もっと激しく戦う能力を備えているからである。

生の営みはシジュポスの神話だ。

ゴールを目ざしてどれほど速く走ろうとも、到達すれば、また次のレースが始まるのである。(232p)


いずれにせよ、

進化からいかなる種類の道徳的結論も引き出すことはできない。

子どもが誕生する前に、男女の性的投資に不平等があるのは人生の真理であって、それは道徳に反するわけではない。「自然」なのである。人間としては、男が女あさりするのは当然だという偏見を「正当化する」から、こういった進化的シナリオを指示したいと思ったり、また、男女の平等を成し遂げようとする努力を「水の泡にする」から、これを拒否したいと思ったりする強い誘惑にかられるだろう。しかし、そのどちらでもないのだ。この事実は、何が善で何が悪かを物語っているのでは決してない。私は人間の本性を記述しているのであって、人間の道徳を処方するつもりなどない。自然だからといって正しいことではないのだ。類人猿が日常的に殺害を行い、人類の祖先もそうであったという意味においては、殺人は「自然」である。偏見、憎悪、暴力、残虐。これらはすべて我々の本章の一部なのである。そしてしかるべき教育がこれを無効にできるのだ。本性は柔軟性に欠けているわけではなく、融通がきくのである。さらに、進化に関して最も自然なことは、ある種の本性は他の本性と敵対するということである。

進化の行きつく先はユートピアではない。

ある男にとって最善の状況は、他の男にとって最悪の状況、ある女にとって最善の状況は、ある男にとって最悪の状況という事態に招くのだ。どちらかが「不自然」な運命を余儀なくされるのである。これが赤の女王のメッセージの核心である。(240p)



ところで、一夫多妻の閾値モデルから、次のような疑問がわく。

我々の社会で一夫多妻が禁止されているのは、誰の利益のためなのだろうか?

我々は自動的に女性の利益のためだと考えてしまう。しかし、よく考えてみてほしい。現在もそうだが、意志に反してむりやり結婚させるのは違法である。つまり第二夫人たちは、自発的にその境遇を選んでいるにちがいない。仕事をもつ女性は、三人での共同生活をいっそう好都合だと思うにちがいない。子どもの世話という日課を共有してくれるパートナーを二人もてるのだ。モルモン教の弁護士が最近述べたように、現代のキャリアウーマンたちにとって、一夫多妻を魅力的にしている「やむにやまれぬ社会的理由」があるのだ。しかし男性への影響を考えてみるとどうか。多くの女性が貧乏人の第一夫人よりも金持ちの第二夫人になることを選ぶとしたら、未婚の女性が不足して、多くの男性は哀れにも独身を余儀なくされるのである。

一夫多妻を禁じる法律は、女性を守るどころか、男性を守るために機能しているのだ。
(246p)



「文明」の到来までには(紀元前一七〇〇年のバビロンから紀元一五〇〇年のインカに至るまで)、地球上の六か所でで独立し、皇帝が数千人の女をハーレムに囲っていた。かつて狩猟の腕前と戦士としての技量が、男に一人ないし二人の妻を余分にもたせたとしたら、富は一〇人あるいはそれ以上の妻をもたせた。しかし富には他の利点もあった。妻を直接買えるだけではない。「権力」も買えたのである。ルネッサンス以前では、富と権力を区別するのはむずかしかったということは注目に値する。そのころまでは、権力機構から独立した経済分野というものは存在しなかったのである。男の生計は忠誠とセットで同じ社会的優越者の恩恵を被って成り立っていたのだ。大ざっぱに言えば、
権力とは命じたとおりに行動する味方を集める能力で、完全に富に依存している(暴力の助けを少し借りるが)。
(258p)



宮廷風恋愛
 人間の配偶システムは富の相続という事実によって、非常に複雑になっている。親から富や地位を受け継ぐ能力は、なにも人間だけに特有なのではない。親元にとどまり、あとから誕生するヒナを育てる手伝いをして、親のなわばりを所有する権利を相続する鳥類もいる。ハイエナは母親から順位を受け継ぐし(ハイエナはメスが優位で、しばしば体もメスのほうが大きい)、多くのサルや類人猿もそうである。しかし人間はこの習慣を芸術にまで高めた。そして

娘より息子に富を残すことにさらに大きな関心を寄せている。

これは表面的には奇妙なことだ。ある男が娘に財産を残せば、やがて彼の孫娘の手に渡るのである。ある男が息子に財産を残せば、やがて彼の孫息子に渡るかもしれないが、別の者にいくかもしれない。いくつかの母系社会では、実際におびただしい乱交が行われていて、だれが実の父親からわからないところがあり、こうした社会では、伯父が甥に対して父親の役割を果たす。
 実際、階層化の進んだ社会では、貧困者はしばしば息子より娘を大事にする。もっともこれは父親がだれであるかがはっきりわかるからではなく、貧しい娘は貧しい息子よりもたくさんの子どもを残す可能性が高いからである。封建時代、領主の家臣の息子は子どもをもてないことが多かったが、彼の姉妹は城に召され、城主の愛妾になってたくさんの子供をもうけることができた。当然考えられるとおり、一五,六世紀のベッドフォード州では、小作農は息子より娘に多くの財産を残したという証拠がある。一八世紀、ドイツのオストリフリーズランドでは、人口停滞地域の自作農は、家族構成がなぜか女性に偏っていたが、人口増大地域の自作農は男性に偏った家族構成であった。そこで次のような結論を引き出すのが必然となる。人口停滞地域では、新しい仕事を始める機会がなければ、第三子や第四子は一家の金食い虫であった。それゆえ誕生すると口減らしをされ、女性に偏った性比が生じたのであろう。
 ところが社会の頂点では、これと逆のえこひいきが主流であった。中世の貴族は娘の多くを修道院に追い払った。世界のいたるところで、金持ちの男はつねに息子を、それもしばしば一人の息子だけを偏愛してきた。裕福もしくは権力のある父親は、地位や、地位を得る手段を息子に残すことによって、息子が姦通に成功し、たくさんの庶子をこしらえる手段を残したのである。金持ちの娘にはこうした利点はありえない。
 このことは奇妙な結果をもたらす。つまり男や女がなしうる最大の成功は、裕福な男の法定相続人をこしらえることなのである。こうした論理は、

見さかいのない恋あさりはすべきでないことを示唆している。

最も優れた遺伝子をもつ女性や、最良の夫をもつ女性、すなわち最も成功する息子を産む能力を備えた女性を口説くべきなのだ。中世においては、これは芸術にまで高められた。女相続人や大貴族の妻と密通することが、宮廷風恋愛の洗練のきわみとみなされたのである。馬上槍試合は、恋あさりをもくろむ男たちが、貴族の女性に自己アピールする絶好の機会であった。エラスムス・ダーウィンが詩に歌ったように。(312-314p)



フェミニズムと決定論
 男女の本性が異なるという主張で奇妙なのは、それが徹底してフェミニスト的主張であるという点である。

フェミニズムの本質には、一つの矛盾が潜んでいるのだが、ほとんどのフェミニストはそれに気づいていない。

男性と女性があらゆる仕事に等しく適していると述べた者が、舌の根も乾かないうちに、女性が仕事をすればやり方が違うなどと言うことはできない。つまりフェミニズムとは人類平等主義にほかならない。もっと多くの女性が仕事をとりしきるようになれば、もっと配慮ある価値観が生まれるだろうと、フェミニストたちははっきりと論じている。女性は異なった本性をもつ存在であるという仮定から出発しているのだ。女性が世界を治めたら戦争はなくなるだろう。女性が企業を経営したら、競争ではなく強調が社訓になるだろう。こうした主張は、明白かつ断固とした性差別である。女性はその本性と性格において男性とは異なると言っているのだ。もしも女性が異なる個性の持ち主であるなら、ある種の仕事では男性より優れたり劣ったりしているのではないだろうか?相違というものは、好都合ならば受け入れられ、不都合なら拒否されるものではない。(340p)



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