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富の未来(下)
評価:
A. トフラー,H. トフラー
講談社
¥ 1,995
(2006-06-08)
コメント:刺激が多すぎてなにをどう学んでいまの生活に活かそうとしているか説明できないけれど、読んでいておもったのは、新聞やニュースでいかめしく現状分析のお題目をとなえている人たちの考えは、だいぶまえにトフラーが考えていたことなんだ、ということ。

 目先のことに目を奪われているのは、経営の世界にもみられる現象だ。近年、経営のグルは企業経営者に、変化がここまで早くなっているのだから戦略にかかづらっている暇などないと教えている。必要なのは戦略ではなく、敏捷さだという。企業や国が外部環境への適応性、柔軟性、敏捷性を十分に備えていれば、戦略は不要だと主張しているのである。
 敏捷さはもちろん、絶対に必要不可欠だ。だが戦略をもたない敏捷さでは、後追いにしかならない。個人や企業を、さらには国を、誰か他人の戦略に、そうでなければ偶然に、委ねることにしかならない。
 戦略も、欠陥のある人間が造るものなのだから、かならず欠陥がある。そしてもちろん、柔軟でなければならず、素早く改訂できなければならない。戦略を賢明なものにするには、いまの変化の速さを考慮するのはもちろん、今後、変化がさらに加速することを考慮しなければならない。
 もちろんこれは、言うは易く行うは難しの典型のようなことだ。だが戦略をを捨てて敏捷さを重視するのは、近くの空港に大慌てで駆けつけ、そのときの人の流れに乗って、行き先を確認しないまま、飛行機に乗るようなものだ。
 もちろん、行き先がどこでもいいのであれば、これでいい。テキサスでも東京でもテヘランでも、荷物が一緒に運ばれれば地の果てのティンブクトゥでもいいのなら。
 だが実際には、どこでもいいというわけにはいかない。行き先をしっかり確認すべきだ。未来を手中にできるのは、行き先をしっかり確認した人なのだから。アメリカの内部でも外部でも。(328-329p)
 人気ロック・バンド、グレイトフル・デッドの作詞家だったジョン・ペリー・バーロウがいま、知的所有権の強化に反対する運動の指導者として主張しているのが、まさにその点だ。「聡明なはずの人でも、馬を盗むことと歌を盗むことの間に違いがないと考えている」と語る。
 資産としての馬は、有形であり、競合性がある。歌はどちらの性格もない。何百万人もの人が同じ馬に同時に乗ることはできない。これにたいして歌は、いうなれば自由に歌われることを「望んでいる」のであり、作曲家は印税収入に頼るべきではないとバーロウは主張する。
 それだけでなく、著作権などの権利を拡張しようとする動きは、インターネットなどのメディアの内容に対する管理を導入し、強化するために大企業がとっている陰険な大戦略の一環だとバーロウらはみている。新しいメディアの登場で、抜本的な変化が必要になっていると主張する。
 知的所有権に関する論争では、どちらの側も想像力とイノベーションの維持を大義名分として掲げている。だが、論争自体には想像力とイノベーションがかけている。(104-105p)



ボクのこのブログに転記する、という行為もミッキーマウスの肖像権をかたくなにまもろうとするディズニーには煙たい行為ととらえられるんだろう。たしかに、情報は「無形」であるという性質上、完全な権利の保護はむずかしいよね。森鴎外が文学を志す青年から、どうしたら文章が上手くなるか教えてほしいといわれてこうこたえた。曰く、戦国策などの古典を読みたまえ、真似したまえ。そうするうちに自分独特の文体、伝えたいことが湧き上がってくるであろうと、と(たしか、鴎外談話だったとおもう)。人の行為に純粋な「オリジナル」はないんだ、という好事。アダムとイブまでさかのぼれば話は別かもしれないけどさ。


 いまでも、工業時代の主要な原則である標準化、集中、規模の極大化、中央集権化が、EUの方針を決めるうえで強い力をもっている。このため、知識経済のもとで製品と市場のマス化の動きが起こり、それに伴って社会と文化の多様性が高まってきたなかで、EUは加盟国の均一化を追及している。多様性が大切だと語ってはいるが、実際の行動では税金から化粧品まで、履歴書からオートバイの法規まで、あらゆる点で、「統一」をはかる努力を続けている。それだけではなく、画一的な規則を採用するにあたって、通常、各国の規則のうちもっともきびしく、もっとも柔軟性に欠けてるものを選んでいる。(270-271p)


川への第一歩

 アメリカが世界に送っているほんとうのメッセージ、政治的なスローガンや広告の言葉より重要なメッセージは、「変化の教え」である。
 変化の遅い社会にくらす世界各地の数十億人にアメリカが送っている主要なメッセージはこうだ。変化は可能だ。それもはるかかなたの将来にではなく、いまの世代が生きている間に、遅くとも子供の時代には……。
 この教えでは、変化が良いものになるのか悪いものになるのかは問題にしない。この点の解釈では意見が分かれるだろうし、対立も起こるだろう。それでも、変化が可能だとする考え方自体が、世界各地の多くの人びとにとって、とくに貧しい若者にとって革命的である。そして無数の例に示されているように、変化は不可能だと考えている限り、未来をつかみとるための行動を起こそうとする人は、まずいない。
 世界各地の若い世代が変化の教えに勇気づけれた場合、その結果起こる変化がアメリカにとって、アメリカ人にとって喜ばしいものになるとはかぎららない。中東では、選挙によって宗教的な独裁主義者が政権を握る可能性もある。アフリカや中南米では、それとまったく違った変化が起こるかもしれない。
 変化の教えは既存の制度と秩序にとってとくに危険である。もともと右翼的でも左翼的でもないし、民主主義的でも独裁主義的でもないからだ。この教えが意味するのは、どの社会も、どの生活様式も、どのような信念すらも、本来一時的なものにすぎないということである。
 これはアダム・スミスやカール・マルクスのメッセージではない。フランス革命やアメリカ独立戦争のメッセージでもない。もっとも革命的な哲学者、ヘラクレイトスのメッセージである。ヘラクレイトスの有名な言葉が変化の教えを要約している。「同じ川に二度足を踏み入れることはできない。二度目には川が変化しているからだ」。すべては過程である。万物は流転する。
 ヘラクレイトスは要するに、歴史のなかでみれば、社会制度がすべてそうであるように、思想や宗教もすべて一時的なものだと主張したことになる。そしてこれこそ、アメリカが発している真のメッセージだ。そしてもっとも深いレベルで、数十億人の睡眠を妨げ、悪夢をもたらしているのは、このメッセージなのだ。
 アメリカが変化の教えを説く衝動を抑えきれないのは、アメリカが変化の典型だからである。
 いまでは多数の国が、工業に基づく富の体制と文明から知識に基づく富の体制と文明へと移行しはじめているが、新たな富の体制にはそれに対応する生活様式が不可欠であることを認識していない。アメリカはこの移行に伴う全面的な変化の岐路にある。そのアメリカにとって、もっとも重要な輸出品は変化なのだ。(22-23p)


いまでも、工業時代の主要な原則である標準化、集中、規模の極大化、中央集権化が、EUの方針を決めるうえで強い力をもっている。このため、知識経済のもとで製品と市場のマス化の動きが反転して非マス化の動きが起こり、それに伴って社会と文化の多様性が高まってきたなかで、EUは加盟国の均一化を追求している。多様性が大切だと語ってはいるが、実際の行動では税金から化粧品まで、履歴書からオートバイの法規まで、あらゆる点で「統一」をはかる努力を続けている。それだけでなく、画一的な規則を採用するにあたって。通常、各国の規則のうちもっともきびしく、もっとも柔軟性に欠けるものを選んでいる。(270-271p)


将来を盗む

 アメリカが世界の富の革命で最先端の地位を維持するためにも、貧困を減らすためにも、工場型の教育制度を新たな制度に置き換える必要がある。改革では不十分なのだ。
 公教育をめぐる波の衝突は今後、個々人にとっても政治の場でも激しさを増していくだろう。これは現在の制度で年四千億ドルにのぼる経費をめぐる戦いであり、教育の失敗がもたらす社会コストと、労働者が十分な教育を受けていないことで企業が負担するコストをくわえると、さらに世巨額のコストをめぐる戦いである。
 おそらく、アメリカの波の衝突でもっとも大きなコストを負担をするのは、五千万人に近い子供たちであろう。子供が強制的に通わされている学校では、いまや存在しなくなった職につくための教育が行われており、その点ですらあまり成功していない。子供の「将来を盗む」ような教育が行われているのだ。
 教育は職につく準備のためだけに行われているのではない。だが、ごくごく少数の例外はあるが、いまの学校は消費者になり、生産消費者になるための教育もできていない。それだけでなく、性、結婚、倫理などの側面でも、ますます複雑になり、多様な選択肢のある社会に対処できるように教育することもできていない。そして、学習がいかに楽しいのかは、ごくわずかすら伝えることに成功していない。
 (中略)要するに企業にとって、工業時代の大量生産経済を築くために、画一的な教育で若い世代をマス化することが決定的な意味をもつようになったのである。(289-291p)


 中央各国の政府がいまの段階で、石油後の知識集約型経済に向けた計画を立てなければ、中東地域から巨額の富が流出し、貧困と絶望感がさらに深刻になって、テロがさらに活発になりかねない。
 そうなれば、サウジアラビアの財務資源が減少し、イスラム世界で同国と中東の宗教的な影響力がさらに低下し、シーア派、スンニ派などの力関係も変わるだろう。
 サウジアラビアの支配層は巨額の石油収入を、イスラム教でもとくに戒律のきびしいワッハーブ派の影響力を世界各地に広めるために使ってきた。この資金は、イスラム教徒の若者が経済的に価値の高いスキルを獲得できるように教育するために使えたはずである。
 そうはせず、宗教だけを教える学校に資金を注ぎ込んだ結果、アフガニスタンでタリバンが生まれ、世界各地に職がなく、希望がなく、怒れる若者が増え、いま、サウジアラビア政府の転覆を目指しているテロリストすら生まれた。
 外部からみれば、イスラム社会ではすでに戦争がはじまっている。ただしこの戦争では、敵は反イスラム教で帝国主義のアメリカではないし、他の非イスラム国でもない。欧米ですらない。中東各国の多くを長年にわたって支配してきた指導者、貪欲で偏狭で近視眼的な指導者、第三の波に乗って明るい未来を築くために石油マネーを使おうとしなかった指導者なのだ。(320-321p)


生産消費によっていずれ、たとえば失業という問題の扱い方が変わる可能性もある。一九三〇年代の大恐慌とケインズ経済学の勃興以来、公的資金を金銭経済に注入し、消費需要を刺激し、それによって職を生み出すことが失業問題の典型的な解決策の一部になっている。この政策では、百万人が失業しているのなら、百万の職の創出で問題が解決するというもっともな想定が基礎になっている。
 しかし、知識集約型の経済では、この想定は成り立たない。第一に、アメリカでも他国でも、いまでは失業者が何人いるかすら分からなくなっているし、失業者という言葉の意味すら分からなくなっている。いわゆる「職」と個人事業とを組み合わせていたり、無休の消費活動で価値を生み出したりしている人がきわめて多くなっているからだ。
 第二にそれ以上に重要な点として、たとえ五百万の職を創出しても、百万人の失業者が新しい労働市場で求められている知識やスキルをもっていなければ、失業問題は解決できない。失業は量の問題ではなく、質の問題になっているのである。職業訓練や再研修すら考えられるほど役立つわけではない。新しいスキルを学び終わったときにはすでに、経済で求められる知識が変化している可能性があるからだ。要するに、知識経済での失業は工業経済での失業と違っている。構造的なものなのだ。(336-337p)


豊かな国では、知識集約型経済によって奇妙な現象があらわれている。何千万人もの中産階級の知識労働者が毎日何キロも走るか、スポーツ・ジムや家庭でトレーニングをし、汗を流して疲れ果て肩で息をし、それが終われば、運動はいいと喜んでいるのだが、重要な点をひとつ忘れている。経済的に恵まれているからこそ、どういう運動をするのかを自分で選べる事実を忘れているのだ。世界各地の肉体労働者は、農民であれ工場労働者であれ、食べていくために汗を流しているのであり、選択の余地はほとんどない。
 天候と地主に泣かされながら黙々と農業を続けている人や、組み立てラインの付属物のような立場で働き続けている人なら、こうした労働がいかに非人間的になりうるかを知っている。知識労働と先進的サービス業への移行は最悪の場合でも、明るい未来に向けた第一歩になる。(345p)
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