<< December 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
<< 3年で辞めた若者はどこへ行ったのか | main | 「総合職」という謎 >>
富の未来(上)
評価:
A. トフラー,H. トフラー
講談社
¥ 1,995
(2006-06-08)
コメント:会社が引っ越すときに、掘り出された一品。 富とは何か、その底辺にながれる知識とは何か。いろいろなものが整理され、有機的に再統合されるーそんな作用がこの本にはある。

学校にいると閉塞感を感じるーこの感覚はいまの環境を下敷きにするととてもスッキリと脳にはいってくる。つまり、学校で教えられている集団行動、規則への遵守など、工場で働くうえで美徳とされている諸行動が、教えられて実践したその瞬間から、自分たちの目の前で音を立てて崩れていく。だから、「いったいこれを学んでなんになるのか」となるわけで、そういった失望が収斂されて、漠然とした「閉塞感」となる。
だが、企業と経済の動きが新聞や雑誌、インターネット、テレビ、携帯電話などで大量に報じられていながら、何よりも重要な動きが、富の歴史的な変化という動きが、それほど重要ではないニュースの氾濫のなかで見失われているか、目立たなくなっている。本書はこの見失われた動きを描くことを目標としている。(20p)


 自分自身の富であれ、他人の富であれ、富の将来を最大限に幅広い角度から理解するためには、富の源泉に遡って考えていかなければならない。富の源泉は、欲求である。

富の意味

 欲求にはなくてはならない必要によるものから、気まぐれな欲望によるものまで、様々な種類がある。どのような種類の欲求であっても、それを満たすのが富だ。渇望を癒すのが富だ。いくつもの欲求を一度に満たす場合もある。居間の壁に少しばかりの飾りが欲しいと思うことがある。絵画を飾れば、高価なものでなくても、それを見るたびに少しばかり幸せな気分になれる。同じ絵画で、趣味の良さや社会的な地位の高さを訪問客に印象付けたいという欲求を同時に満たせるかもしれない。そして富は、銀行預金や、自転車、ためこんだ食料、健康保険である場合もある。
 富とは大まかに定義するなら、経済学で「効用」と呼ばれるものがある何かを、単独でか共有の形で所有していることである。つまり、何らかの形の満足を与えるか、あるいは何らかの形の満足を与える別の形態の富と交換できるものである。いずれの場合にも、富は欲求が生み出すものだ。この点も理由になって、富について考えること自体を嫌う人がいるのである。

欲求を管理する人たち

 たとえばある種の宗教は、欲求は悪だと教える。禁欲的な宗教は貧困のなかで忍耐を教え、欲求を満たすのではなく抑制すれば幸せになれると説く。物欲を抑え、何ももたずに生きていくよう教える。インドの宗教は何千年も前からまさにそう教えてきた。それも信じがたいほどの貧困と惨状のなかで。
 これに対してプロテスタンティズムはヨーロッパで生まれたとき、まったく逆の教えを説いた。物欲を抑えるのではなく、勤勉に働き、倹約し、高潔に生きるよう教え、この教えにしたがえば、神の恩寵によって、自分で自分の欲求を満たせるようになると説いた。欧米では広範囲な人たちがこの価値観を受け入れ、豊かになった。欧米ではさらに、欲求をつぎつぎに生み出していく永久機関、広告が生まれた。(中略)要するに、禁欲主義、イデオロギー、宗教、広告などの方法を使って、そう意識しているかどうかはともかく、どの社会でも指導者層が欲求を管理している。富の創出の出発点にあたる欲求を管理しているのである。
 当然ながら、欲求の水準を高めても、あるいは富や欲求から少しずれるが、貪欲を奨励しても、それだけで金持ちになる人がでてくるとはかぎらない。欲求を強め、富を追求する文化であっても、富が獲得できるとはかぎらない。だが、貧しさの美徳を教える文化は、まさに求める通りのものを達成するのが普通だ。(49−51p)


グローバル化に賛成する論者も反対する論者も、グローバル化と自由化を一体のものと考えており、この二つが分離できないものであるかのように扱っている。だが、自由化を伴わない経済統合はありうる。逆に、国営企業を売却し、規制を緩和し、経済を民営化して自由化を進めている国が、グローバルかを同時に推進しなければならないわけではない。これらの政策をとっても、マクロ経済から生活に直結するミクロ経済へと、長期的に利点が波及していくと保証されているわけではない。そして、民主主義が確立すると保証されているわけでもない。(169p)


 一般的に使われている方法で、知識をデータや情報と区別できる。データは通常、状況から切り離された個別の項目だとされる。たとえば、「三百株」はデータである。データとそれを取り巻く状況とを組み合わせると、情報になる。たとえば、「われわれは医薬品会社Xの株式を三百株もっている」というのは情報である。
 情報を組み合わせてもっと幅が広く、もっと高い水準のパターンを組み立て、それを他のパターンと関連づけたときに、知識をよべるものになる。たとえば、「われわれは医薬品会社Xの株式を三百株もっており、相場全体が上昇する中で二ドル高くなったが、出来高は少ないし、連邦準備制度理事会が利上げする可能性が高い」というのは知識である。(中略)これまでに「知識経済」に関して、地球上のあらゆる言語で、無数の文章が書かれ、デジタル化され、無数の発言がなされ、議論されてきた。たが、富の創出に使われる資源や資産のなかで、知識にどれほど大きな性格の違いがあるのかを明確にしたものはほとんどない。そこで、まずは知識の性格がどれほど違うかを、いくつかの点でみていくことにしよう。
 第一に、知識はその性格上、非競合材である。百万人がひとつの知識を使っても、それで知識が減るわけではない。逆に、使う人が多いほど、その知識から新たな知識が生み出される可能性が高くなる。(中略)
 第二に、知識は無形である。触ることも撫でることも叩くこともできない。だが扱うことはでき、現に扱っている。
 第三に、知識は線形ではない。ごく小さなひらめきが、大きな成果を生み出すこともある。(中略)
 第四に、知識は関係性という性格をもっている。ここの知識はいずれも、その状況を形作っている他の知識との関係性のもとでのみ意味をもっている。状況とはときには、言葉ではなく、笑顔やしかめ面である場合もある。
 第五に、知識は他の知識と関連をもっている。知識が多いほど、関連が多くなり、役立つ可能性がある関連が多様になる。
 第六に、知識はどの製品よりも移動が簡単である。0と1のデジタル情報に転換すれば、隣の人にも、香港からハンブルグの百万人にも、瞬時に配布できる。そして、コストはほとんどかからない。
 第七に、知識はシンボルや抽象的な概念に圧縮できる。有形のもの、たとえばトースターを圧縮してみるといい。
 第八に、知識は蓄積に必要な空間が縮小しつづけている。(中略)
 第九に、知識は、明確に表現されたもの、ほのめかされただけのものもあり、表現されてきたものも、表現されていないものもあり、共有されたものも、暗黙のものもある。テーブルやトラックなどの有形の財には暗黙のものはない。
 第十に、知識は秘密にしておくのがむずかしい。かならず広まっていく。(191−194p)

たしかに。こうして、ぼくがネット空間にはき出すことによって、トフラーの知識はかならず広まっていく。


知識のすべての部分に結局のところ、賞味期限がある。ある時点で、知識は古くなり、「死知識」とでも呼べるものになる。(211p)


 金銭経済に入るには、「金銭経済への七つのドア」とも呼べるもののうちどれかを通らなければならない。長い玄関があって、鍵がかかったドアが七つ並んでいると想像してみよう。疲れきり、埃にまみれ、空腹をかかえた群衆が集まり、必死になってドアを押したり引いたりしている。それぞれのドアには、鍵を開けるために何をすべきか、簡潔な指示が書かれている。文字を読めない人は何が書かれているのか、必死になって他人に聞いている。指示は簡単だが、実行はむずかしい。こう書かれているのだ。

第一のドア
「何か売れるものを作る」。穀物の生産を増やす。似顔絵を描く。サンダルを作る。買い手を見つけ出せば、鍵は開く。
第二のドア
「職につく」。働く。その報酬として金銭を得る。これで金銭経済に入れる。目に見える経済に参加できる。
第三のドア
「相続する」。親か親戚から金銭を相続すれば、このドアは開く。金銭経済に入れる。職を探す必要はなくなるかもしれない。
第四のドア
「貰う」。誰でもいいから、誰かから金銭を貰うか、売れば金銭を得られるものを貰う。どのような形でもそうしたものを貰えば、金銭経済に入れる。
第五のドア
「結婚する」。再婚でもいい。七つのドアのどれかを通ってすでに金銭経済に入っている相手を見つけて結婚し、相手がもっている金銭を夫婦で使えるようにする。そうすれば中に入れる。
第六のドア
「福祉の世話になる」。政府がしぶしぶながら給付金を支払ってくれる。金額はわずかだろうが、その分、金銭経済に入れる。
第七のドア
「盗む」。最後に、どの社会、どの時代にも盗むという手がある。犯罪者にって最初の手段、自暴自棄になった貧乏人にとって最後の手段が盗みである。(281−282p)


ほとんどの先進国では、「近代的」な制度のうち公教育と呼ばれているものほど時代遅れで、機能不全に陥っている部分はない。
 そのうえ、教育改革案のほとんどは、工場型の集団教育が教育の唯一の方法だと暗黙のうちに想定されている。そしてほとんどの提案は、そうとは意識しないまま、「教育工場」をもっと効率的に運営することを狙っていて、工場型を超える新しいモデルに置き換えようとはしていない。また、ほとんどの提案では、教えるのは教員だけだと暗黙のうちに想定されている。このため、最近の教育の歴史のなかで、とりわけ驚くべき出来事がほとんど無視されている。(362−363p)
スポンサーサイト
COMMENT









Trackback URL
http://8ru.jugem.jp/trackback/147
TRACKBACK